経験不足の経験者|知恵無き年数に価値はない

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経験年数
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経験年数や実績の割に実力がない理由

勘違いちゃん発生のメカニズム

言葉の威力

経験年数が取り沙汰されることがしばしばあります。

この道、何十年の経験がある

この言葉には、他の者の言動を封じ込めてしまう効力を持つことがあります。

裏腹

確かに、きちんと積み重ねられた年数であるならば、経験年数は大きな価値を持つことでしょう。時間経過に於ける経験の質が同一であるならば、期間が長いほどに経験が多いことを意味するからです。

しかしながら、時間経過に於ける経験の質が同一であることは稀で、同じ一年、もっと短く同じ一ヶ月でも、経験の質の個人差は、極めて大きなものです。

そういうこともあって、こういった言葉が発せられる多くの場合、経験年数は、単なる年数の経過に過ぎないのではないかとの疑念を持たされることが多いです。年数を口にしなければ、他を納得させることができない。そして、半ば強引に他の者に言うことを聞かせよういう意図が見え隠れするということです。

年数分の上積みがあれば、経験年数を口にしなくても言葉に重みが有り、説得力を持つものです。

具体的に話をしましょう。

上積み無き10年

競馬が話題に上がりました。先輩が後輩に、競馬の薀蓄(うんちく)を話します。そして、二人は連れ立って競馬場へ行こうという話になりました。

競馬歴10年の俺が買い目を教えてやろう!

競馬歴10年の先輩。決して競馬で稼いでいるわけではありません。月末になると競馬での負けが嵩じて、昼食代を倹約しなければならないのが常でした。

この先輩の10年の経験をどう見るかという話です。

先輩の誇る10年の経験が、競馬の収支改善と言いますか、利益化に繋がっているのであれば、価値が認められましょうが、負け続けの10年の経験に見るべきものはありません。

仮に、その年、まぐれ当たりの大穴で、偶々(たまたま)利益化していたとしても同様です。そこには確かな知恵(ノウハウ)の蓄積が見られないから競馬歴10年に価値は無いのです。価値があるとすれば、強い競馬愛といった別の次元のものでしょう。

簡単に纏めると、経験年数が価値を持つために必要なことは、競馬に勝つ、利益化するための確かな知恵(ノウハウ)であり、大穴に大金を突っ込んで、その結果、偶々利益化していたとしても、そこには再現性が無いために価値は認められないということです。

改めてビジネスでも例示しましょう。

真似では実績と言えない

魚屋(鮮魚店)があるとしましょう。正社員数名とパート数名からなる売り場に新しい店長が異動してきました。前店舗では、可もなく不可もなく店を管理してきたということで、新店舗を任され、前店でのやり方を踏襲しました。

ところが、日に日に来客は減り、売上は下がって行きます。新店長は、魚屋の中では古参社員の部類で、経験年数も長い方です。そして「これまでのやり方」にこだわり続けました。

「これまでのやり方」が上手く行かないのは、そこに知恵が無いからです。一見、経験年数が長いと、様々な局面を経験しているかのように錯覚します。ところがこれが曲者(くせもの)です。試行錯誤の末、店舗運営の何たるか、売り場管理の何たるかを掴んでいれば良いのですが、単に決まった手続きをなぞってきたのだとしたら、年数に重みは有りません。

これまでのやり方の一例を挙げましょう。主婦の感覚を大切にするとして、売り場内のパートタイマーの主婦2、3名の意見を聴取していました。しかしながら、一つのやり方が、或る売り場で上手くいったとしても、別の売り場で同様に上手く行くとは限らないのです。

知恵が込められたやり方ならば、機能するのですが、知恵なきやり方、つまり単なる手続きでは、同じやり方に再現性はないのです。

極端な譬えで説明します。

「応用が利かない」

仮にネジで固定するのが仕事だとします。この仕事で、螺子回し(ねじまわし)で螺子(ねじ)を締めることを知恵だとします。これを手続きで覚えるとは、螺子に螺子回しを当てて数回まわすといった内容になります。いつもプラスの螺子を使っていたとして、マイナスの螺子回しが支給されれば、仕事が進まなくなります。

螺子や螺子回しにプラスとマイナスが存在することは常識として知られていますから、馬鹿げた話に聞こえるかもしれません。しかしながら、仕事一般で言えば、螺子回しで締めると理解しているのと、或る特定のプラスの螺子回しを「これ」或は「この道具」として覚え、「『これ』を数回まわす」や「『この道具』を数回まわす」と記憶しているのでは、応用度が大きく変わってきます。

「応用が利かない」としばしば言われるのは、仕事の本質を理解せず、手続きに終始していることが原因であることが殆ど(ほとんど)でしょう。

何者!?(なにもの!?)

金目鯛の切り身を見せて、

あなたはいくらなら買いますか?

とパートタイマーの主婦らに聞いたとしましょう。

食生活

先ずは、聞かれた主婦が、普段から、魚を食べているのかが問題になります。

常日頃から魚を食べつけない人に、鯵(アジ)や鰯(イワシ)といった一般に親しまれている魚ならいざ知らず、高級魚(値段が高い魚)である金目鯛(キンメダイ)の値段を聞かれても返答に窮するでしょう。そもそも、金目鯛の切り身を買うという選択肢自体が自らの中に無い人である可能性すらあります。

経済的背景

主婦の置かれた経済的背景も問題です。共働きで高給取りの夫がいる場合と、所謂バツイチで、パートタイマーの仕事で子供を養っている場合を比べたら明らかでしょう。

お金に対する価値観にもよりますが、平均的に見れば、一日の食費の予算に大きな隔たりがあることは、想像に難しくないでしょう。

目利き・技量

丸魚や切り身の状態が、どの程度見極められるかの個人差は大きいです。主婦と言っても、魚は言うに及ばず、北寄貝といった貝ですら、開いて処理できる人までいます。料理の技量によっても魚の価値は変わってきます。美味しく料理できない人であれば、値段の高い魚には手が出にくいものです。

「主婦」の大括りはナンセンス

そもそも主婦という簡単な括りの中で、顧客一般を考えようとしていることが間違いなのです。以前の売り場で上手く行っていたとすれば、偶々(たまたま)、パートタイマーの意見が、売り場と合っていたか、商売の分かる有能なパートタイマーが揃っていたかのいずれかでしょう。

前掲の「応用が利かない」の螺子の仕事の譬えで言えば、主婦の意見を聞くは、螺子をこの道具で数回まわすと理解しているのと同じです。手続きの一つを覚えているというに過ぎません。

ここで知恵とは、後述のような売り場のプロファイル、顧客のプロファイリングを進め、マーチャンダイジング(品揃え)に繋げるということです。

仕事として単に「手続き」を覚えているのと、知恵を得るのとでは大きな違いがあることは明らかでしょう。

新しい売り場では、顧客に指5本以上の大きな太刀魚を一本を買っていく人もいる店です。客層をきちんと見極め、購買の多様さに合わせた品揃え(マーチャンダイジング)が、本来ならば課題になるはずです。

それを理解せず、売り場づくりを進めた結果の顧客減少であり、売上減少なのです。

本質を理解せよ

手段と目的の混同

金科玉条(きんかぎょくじょう)として、「現場の主婦の意見を重視する」と、これがあたかもノウハウの一つであるかの如く捉えるのは、意味のないことです。

意見を求めることは悪いことではありませんが、手段の一つに過ぎません。有用な情報は大いに取り入れるべきでしょう。しかし現場主婦の情報は、顧客の生の声の一つに過ぎません。

「私はあなたを知っています」

マーチャンダイジング(品揃えの決定)には、顧客のプロファイリングは欠かせません。顧客像をきちんと描いていく必要があります。

幾つか例示※しますと、

  • 養殖サーモン刺身用柵の顧客層(像)と鰆の切り身の顧客層(像)は、大きく異なる
  • 丸魚を買う顧客層(像)と処理済みの魚を買う顧客層(像)は、微妙に異なる
  • 生海苔を買う顧客層(像)とボイル桜えびを買う顧客層(像)は、重なる

※ あくまでも参考例です。

など、顧客をよく観察し、対話、接客をしていれば、容易に掴める情報です。そして個々の特定の顧客が、こういった観点で、どんな属性を持つか把握していくのです。そして属性の各々の数や割合を見ていきます。その総体が売り場のプロファイルと言っても良いでしょう。そして売り場のプロファイルは、マーチャンダイジングによって変化していくのです。

しかしながら、魚をさばくのが魚屋の仕事とばかりに、漫然と魚の処理をしているだけであれば、何十年経っても、何十年経験しても決して分からないでしょう。

顧客像が異なれば、勧める魚も変われば、価格帯も変わります。

「私はあなたを知っています」というのは、顧客への大切なメッセージなのですが、見当違いの魚を勧めることで、暗に「私はあなたを知りません」と伝えてしまいます。顧客が求める魚を勧めることができれば、「この店員さんは良く分かっている」だとか、「自分の好みが分かるのかしら」と云った具合に、好意的に受け止められます。

更に良好な関係が築ければ、顧客は、「この店員は『私のことを知っている』」と感じるのです。

売り場経験が、上記のような顧客との対話、接客や観察であれば、年数分の上積みも期待できるでしょう。

一方で、パートタイマーへの質問を軸に価格を決定し、売れたの売れなかったのと騒ぎ、魚をさばいているだけならば、何十年経験しようとも、売り場経験は無いに等しいのです。

「過去の経験」は当てにならない

誰が「やり方」を見い出し決定したか

経験年数を嵩に、「あの時は、こうやってうまく行った」とか、「この時はああやってうまく行った」とか云った話は、当てにならないということです。それは先述のように諸条件が異なると、やり方も変化するからです。

当時、そのやり方を見い出した本人であれば、何を考え、何を考慮して決めたか、知識・経験として残っているでしょう。それならば、少なくともその分の経験は見込め、役に立ちます。

真似なら作業したに過ぎない

ところが、当時は上司や誰か他の人の指示やアイデアでやった。それを今回流用しようというのでは、全く経験が無いのと同じことです。

所与の条件(与えられた条件)が全て同一なら、やり方の流用は可能でしょう。しかしながら、所与の条件が同一なのは極めて稀なことです。先の例で言えば、立地、顧客層、入荷する魚、マンパワーなどなどが変わるでしょう。

いずれにしても「過去の経験」が知恵にまで昇華されていなければ、価値は無いということです。

優秀な人材の下で、やり方を真似て結果を残したかに見える人は、実は、何も考えずに、特殊な特定の場合に、その場合だけに当てはまるやり方を真似ていただけかもしれません。そうだとすると成果の再現性は皆無と言え、過大評価は禁物です。

こうして見てくると、経験年数や実績の割に実力がない人、できない人(勘違いちゃん)が散見される理由が理解できるのではないでしょうか。

勘違いちゃん

暴君タイプ、特に説得力があるわけでもないのに、経験年数に物を言わせて、

この道では何年もの経験がある

そして

いいから言う通りにやって!

というタイプは、往々にして、人真似で、あたかも実績を作ったかの如く錯覚し、自分に実力が有ると勘違いしています。

単なる猿真似で知恵は得られておらず、経験年数分の上積みは無いのです。従って、早々に馬脚を露わすことでしょう。

Les Misérables.