怒りと責めが健全であるために

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怒り

近頃では他人ひとの不幸は蜜の味だけでは飽き足らないようで、他人の間違いにかこつけて他人の不幸に追い打ちをかけるのが流行はやりのようです。

相手が間違いを認め、謝罪しているのにもかかわらず、非難を続ける社会的風潮には、強い違和感を覚えます。

かつてならば間違いは誰にでもあると、水に流すか、或いは多少の損害の埋め合わせは受けつつも、一方で多少の損を引き受けて赦すのが日本人一般にあった美徳では無かったでしょうか。

相手が間違いを犯したらこれ幸いとそれに乗じてでき得る限り多くをむしり取ろうとする傾向を社会に見るのは私だけではないのではないでしょうか。

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怒りと責め

言葉を発する時、独り言ひとりごとでもない限り何か意味を込めます。

言外げんがいの意図

その際に文字通りの意味を相手に伝えることは当然として、その意味内容を、単に理解してくれればよいのか、その言葉から何かを考えて欲しいのか、その言葉を受けて何かをして欲しいのか、その言葉を受けて何かしないで欲しいのか、言外げんがいの意図があり得ます。

自らが言葉に込めた意味や意図を明確に意識できるのは、それなりにゆとりがある場合に限られるかもしれません。切羽詰まった状況では、何の意図を持って発した言葉だったのか自覚できないことも多いでしょう。

発した言葉の意図が分からない場合には、ちょっと立ち止まって自らが言葉に込めたであろう意図を探る必要があるのではないでしょうか。明確に意図を意識して発した言葉では無いのですから、その言葉が招く可能性について覚悟しておくためにも、無自覚に込めた密かに込められた、或いは、込められてしまった自分の本音を認識しておくことが必要だろうということです。

恐らくここまでの話にはとりわけ違和感は覚えないと思います。

ところで、近頃見かけることが多くなったことに、相手が誤りを認めて謝罪しているのにもかかわらず、(攻撃の)手を緩めず、執拗しつように責め立てている光景があります。

執拗しつような怒り・責め

この光景こそが冒頭に言及した「むしり取ろうとする傾向」のあらわれに他ならないのですが、少し説明が必要かもしれません。

話を分かりやすくするために、あなたが赦しがたい行為により損害を被り、加害者に怒り、責めていると仮定してください。尚、今回は怒ること、責めることは一括りにして捉えています。

謝罪しても非難し続けるあなたが望むこと

相手が加害したことを認めず、損害の賠償を拒んでいる。それならば、損害を賠償させるべく責め立てることに意味があるでしょう。

相手に自らの行為を認めさせ、埋め合わせ※をさせなければならないからです。そして謝罪を求めても良いでしょう。

※ 場合によっては、謝罪はできても埋め合わせや取返しがつかないこともあります。その場合には、謝罪を以って良しとすべきところかもしれません。今回、焦点を当てたいのは、正しい解決についてでは無く、あくまでも怒りや責めという行為そのものなので、今回は和解点・妥協点については特にこだわりません。

ところがここでは、既に相手は間違いを認め、謝罪しているのです。

怒りが込み上げてくるのは分かります。

しかしながら、謝罪しているのにもかかわらず、あなたが相手を執拗しつように責め続けているとしたら、あなたは相手に何を求めて責め立て続けているのか自問する必要があります。

私は責めることで何を求めているのだろうか。

相手を責め立てることで、何を期待しているのか理解できるよう努めるのです。

そうすると謝罪を求めているだとか、反省を求めていると云った答えが返ってくるでしょう。

曇り

相手は反省もしていて、謝罪もしている。それでも執拗に責め続けるのが現代の社会的風潮であると考え、これに問題を感じるのです。

ですから反問として

あなたが期待しているのは本当に反省や謝罪ですか。

更に言えば

あなたが期待しているのは本当に反省や謝罪だけですか。

と問いたいのです。あなたの相手を責め続ける行為に一点の曇りも無いのですかということです。

怒りで一時的に責めるのは、健全な感情の発露とも言え、怒りが発散されることにもつながります。ところが本来の怒りは、継続的なもの、執拗なものとは質が異なるのではないでしょうか。

強者

あなたは正しい、正義という名の下に強者であり、誤りを認め謝罪している相手は弱者。強者対弱者という構図。

弱者をいたぶることに慰みを見い出しているのではないかという疑念が生じます。

弱肉強食の様相をかつてよりも色濃く呈している現代社会を反映しているとも言えそうです。特に強者の立場に立ったものが弱者に対して力を振り回したがる傾向の顕れであり、相手をおもんばかる能力の著しい低下の顕れでもあります。

一度、強者対弱者という構図が成立したら、とことんむしゃぶりつこうというのが現代流なのではないでしょうか。「むしり取ろうとする傾向」として表現した現象です。

正しい怒り

不正に対する怒りは、本来は正しいものでしょう。勿論、あなたが被害者なら、怒るのは当然です。

本来の正しい怒りが卑しいものにならないためには、どうすれば良いのでしょうか。

怒りの先の求められるもの

怒りを相手にぶつけること、相手を責めることで、あなたが相手に何を求めているのかを常に意識することです。

謝罪を求めて怒る、責める。勿論、冷静に諭すのが一番ですが、謝罪すべき相手が謝罪しようとしないのならば、怒っても致し方無い部分があるでしょう。

無いものは求めない

怒りの先に求めるものは、必ずしも望み通りのものが用意できるとは限りません。

例えば、或るものを壊されてしまった。それが唯一無二のものであれば、取返しは付かないでしょう。

同じものが手に入る状態で、代用品を購入して弁償してもらったとしても、使い込んで馴染んだものとは異なります。一度ひとたび怒りがおさまったとしても、代用品を使う度に、怒りが沸々と込み上げてくることがあるかもしれません。

完璧に納得できる埋め合わせは存在しないのです。

存在しないものを執拗に追い求めても詮無いことです。

怒りの打ち止め

相手が誤りを認め、謝罪した。そして必要な埋め合わせをすることで同意した。あなたは相手に求めるものは無くなったのですから、怒るのはここまでです。

仮にあなたが満足できる結果で無かったとしても、一応の決着を見、相手に望み得ることが無くなったなら、怒りは打ち止めにしなければならないのです。

卑しい怒り

相手が誠意を見せ、謝罪した以上、更に追い打ちをかけるのは卑しさの為せる業です。

弱い立場の相手に怒り、責めることに慰み※を見い出しているのかもしれません。或いは、謝罪の印と称して金品をせびる気持ちが隠れているのかもしれません。

※ 近頃のマスメディアの報道は、間違いを犯した人を人身御供にした卑しい怒りの表現がしばしば見られます。「知る権利」などと云った大義名分の下に、大衆が慰みを見い出すような記事を乱発しています。

何故こうも雑音で鬱陶しい世の中になったのか|無責任な発言が社会の不穏を招くで触れた清原元プロ野球選手についての報道も、正義という名の怒りを食い物にしていることについての指摘です。

同記事では、主題は怒りと責めとは異なりますが、「記事を書いた意図」について言及しています。怒りや責めと同様に、表現した「意図」は常に意識する必要があります。

腹癒はらい

いずれにせよ、あなたが怒りの先に期待できるものを手に入れたのなら、怒りには終止符を打たなければなりません。

怒りに終止符を打つべき時に、更に追い打ちをかける行為を腹癒はらいせ※と呼びます。


※ 言うまでも有りませんが、腹癒せは下品な行為です。また、先に触れたようにマスコミがしばしば行っている他人を槍玉に挙げて、一般の歓心を買う行為、買おうとする行為は卑しいです。念のため。

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