何故こうも雑音で鬱陶しい世の中になったのか|無責任な発言が社会の不穏を招く

煩過ぎる
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不用意に発せられる言葉

卑近な事柄ですが、近頃、不思議な現象に気付きました。

本来、人のことをとやかく言うのは差し控えた方が良いのですが、兎角とかく、仲の良い相手にはこぼしてしまうことがあるでしょう。

グループ崩壊により悪口雑言あっこうぞうごんが飛び

甲さん、乙さん、丙さん、丁さんと居たとして、甲さんと乙さん、丙さんと丁さんが馬が合ったとします。

  • 甲さんと乙さん
  • 丙さんと丁さん

というグループ分けです。

従来

従来ならば、甲さんは、乙さんに、丙さんや丁さんのことをとやかくこぼしたとしても、丙さん、丁さんには、乙さんに感じる不満などはこぼさないものでした。

また、甲さんは、丙さんや丁さんとは馬が合わないのですから、丙さんに丁さんのことをこぼしたり、丁さんに丙さんのことをこぼしたりすることも無かったのではないでしょうか。

要するにグループ内でグループ外の人のことをこぼすことはあっても、グループ外の人にグループ内の人のことをこぼすことは稀だったということです。

現在

ところが、昨今では、馬の合う者同士というグループが崩壊し、甲さんは、乙さん、丙さん、丁さんの各々に、当事者以外のことをこぼすことが散見されるように思われるのです。

これまでは、近しいと感じる人以外には、余所様よそさまのことをとやかく言うのははばかられ、ごくごく親しい間柄でのみ、ちょっとしたうさはらしの愚痴として、こぼされていたように思われるのですがいかがでしょう。

相手構わず、或いは多少は相手を選んでいるつもりにせよ、他人のことをとやかく言えば、行く行くは自分に返ってきて、自分自身についての不愉快な発言を耳にすることは多くなります。皆が同じように振る舞えば、従来に比して、より多くの噂話などが飛び交うことを意味するからです。

自分が居ないところで何を言われているか分からないというような環境では、お互いに不信感は充満して行きます。

発言までの遊びバッファーは必要

些細ささいなことであっても、人によって受け取り方が異なるのは世の常です。それを感情のままに発露吐露していれば、お互いに不愉快に思うことが頻発するのは理の当然と言えます。

沈黙の美徳

もともと日本には沈黙の美徳というものがあって、何か確たる意図が無ければそう易々と感情を表に出しませんでした。

このことによって、集団に有って、相互に違和感を覚えることがあったとしても、互いに与える不快感が少なく抑えられていたのです。

余程の場合、例えば実害があり、相手に改めて欲しい場合や、話し合いが必要と判断された場合などに限って、覚えた違和感を相手に表しておりました。

要するに覚えた違和感を表に出すに至るまでに、大きな遊びの部分があったということです。

また、表現方法も柔らかく穏やかなものであったでしょう。

沈黙を破るハードルの消滅

現代では、ネット社会、SNSなどにより、発言のハードルが格段に下がりました。これまでは、発言について、発言者に責任が付いて回ったのですが、発言に対する責任感が極めて希薄になりました。

そのことで、無知を恥じることなく、無恥になりました。そして、知らないこと、知識が足りないこと、理解が足りないこと、考えが足りないことを恥じる気持ちも無く、あからさまに人をあなどやからが増えました。所謂いわゆる、逆切れなども随所に見られます。

その原因が、他者の喪失にあることについては、¶ 他人のコンテクストを無視する人々で解説している通りです。

ネット社会の不作法がリアル社会に出現

今では、インターネットの作法が、日常生活にまで伝播でんぱしたと考えられます。

例えば、ニュース記事などを読んでみても、記事を書いた意図が読み取れないことが多々あります。単に人をおとしいれる為に書いているのではないかとすら感じられる記事が散見されるのです。

具体例:清原和博元プロ野球選手の事件

ここで云う記事を書いた意図とは、具体的に言えば、清原和博元プロ野球選手(以下敬称略)に関する記事で云えば、

  • 事実関係をきちんと伝えたいのか
  • 清原を反面教師とし、後に同じことをする人を無くしたいのか
  • それとも清原に更生の道を提案したいのか

ということです。

発言に責任を持て!不用意な発言はするべからず

詮索せんさく好きで、人をおとしめる記事を書くことは、筆者の品性を損ねるだけでなく、読者の品格も貶めます。

言葉を発する時は、その発言に何らかの意図を持つ必要があります。言葉の受け手は、少なからず影響を受けるのですから、発言者は、その影響に責任を持つべきなのです。

きちんとした落としどころを意識しない言葉は、厳に慎まなければなりません。

単に清原を糾弾きゅうだんするだけの記事には、全く価値がありません。清原選手を裁くのは司法の役割であり、清原のファンであろうとなかろうと、一市民として更生を助けるのが社会の一員としての務めです。

読者が求める記事を執筆しているだけだという反論には、¶ 需要の創造は必ずしも正しくない|現代社会の病理の根源を探るをご参照ください。

結論をいえば、需要に応える側には、供給することで、社会がどのように変容して行くかについても責任が有るということです。

人を貶めることで、楽しみを得ようとすることはとてもいやしいことです。


近頃、イチロー選手の衰えに関する記事を見かけます。

43歳ですから、実際に衰えが見られても仕方のないことかもしれません。

ただ報道に際しては、日々切磋琢磨しているイチロー選手(以下敬称略)の立場や視点をきちんと意識しなければなりません。

単に読み手が飛びつくよう面白おかしく表現すれば良いわけでは無いのです。

つまり、意図を明確に意識して報道はすべきです。

  • 事実関係をきちんと伝えたいのか
  • イチローを激励したいのか
  • イチローに何か伝えたいのか

などです。清原について先に言及した通り、イチローを貶めることで、楽しみを得ようとする行為は感心しません。結論も同様です。

[平成29年5月30日追記]