世の中には
しかしながら、それは私が今、正に申し上げたい意味合いとは恐らく違う意味でなのではないかと思うのです。
それがどのようなニュアンスであるのかについてこれからお話ししたいと思います。
外側の人々
様々な人
人は、一般に、成長するに従って、小学校、中学校・・・と幾度か進学し、就職と何段階かのプロセスを経ていきます。一見すると当たり前で、普通の話なのですが、実は、このひとつひとつで、周りに存在する人が、
人種の坩堝
具体的にお話ししますと、まず小学校は人種の
時間と共に進む選別
選り分ける・・・選別・・・ここには差別的な意味はありません。価値・評価を含めた意味での選り分けではなく、網にかかった魚を、種類別に分けているような感じで捉えてください。意味するところは、段階が進むにつれて、同じような人間が集まるよう選り分けられていくという事実の存在です。
この各々の段階、つまり、中学校、高等学校など個々の段階の中でも、選り分けは進みます。クラブ活動は何を選ぶか、部活動を行うか、否かやどんな習い事や塾に通い、どんな友達と付き合うか、どんな趣味嗜好を持つかで変わっていきます。
同種の人間が集まって行く
仕事でも同じです。一部を除けば、顧客層や同僚も自然と同質に近いものが集まって来がちです。同質でない人がいたとしても少数派でしょう。
そうなのです。望むと望まないとにかかわらず、自分の周りにいる人々は、単に顔ぶれが、自然と変わってくるだけでなく、中身に於いても変わっています。自分が付き合っている人は、自分と同質の人間になりがちなのです。
日常の意識外にある人の存在
ようやく結論に
この意味における「世の中には様々な人がいます」に基づいて、次回以降お話していきたいと思います。
[以下追記 平成28年11月24日]
学生時代に
「こいつら馬鹿だなぁ」と思ってもまだまだましな方なんだぜ。
歩いていていきなり殴りかかってくるようなことは無いし、普通にして居られる。
酷いところでは、それすらも叶わない。
友人は、今回お話しした「外側の世界の存在」について言及していたのです。
言葉は悪いですが・・・