確率から見る科学妄信の危険と拒否する自由|科学知は選択するもの

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サイコロ

サイコロを2つ振って、その合計(和)を当てる遊戯をするとしましょう。

遊戯に勝とうと考えると確率の出番になります。

前提条件として、サイコロのどの目が出る確率も「同様に確からしい」としましょう。※

※ つまり、特定の目が出るよう細工されたものでは無く、また、技術的制約から、いずれかの目が出やすいものとはなっていないものです。要するに理論上の純粋なサイコロということです。

すると長期的に見れば、選択できる出目の合計が1つであれば、勝つために有利なのは7となります。そして2つ選べるのであれば、7と6或いは8を選ぶことになります。

出目の合計としてあり得るのは2から12です。7の出る確率は六分の一、6の出る確率も8の出る確率も三十六分の5だからです。一方で、2の出る確率も、12の確率も、三十六分の一で、両者共に最も出にくい出目の合計値です。

当たり前の話を何を今更と思われる向きがあるのを承知の上で、敢えて説明しました。これからのお話しをより理解しやすくする助けとなると考えたからです。漠然とした感じだと、先の説明も漠然としてしまうことを懸念したとご理解いただきたいところです。

さて、ここからが本題になります。

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確からしさの意味

ここまでの説明で、遊戯に勝とうとした場合の制約条件に「長期的に見れば」としたことに目を向けてください。

では短期的、例えば次の1ゲームに勝とうと考えた場合、必ずしも確率的に高いものを選ばない。この点を指摘したいのです。

均一では無い判断基準

或る者は、やはり確率的に高い7の目を選ぶかもしれません。

また、或る者は統計的に判断するかもしれません。例えば、確率的には常に7は六分の一の確率(凡そ一割六分七厘)だが、これまでの結果で7が挑戦回数の二割を占めている。これを異常値と見て、例えば6乃至8を選ぶと云った具合にです。

勘に頼る者も居れば、直観によるものも居るかもしれない。次は絶対に1のゾロ目が出ると確信している場合です。

これは冒頭で前提条件とした、サイコロのどの目が出る確率を「同様に確からしい」として判断が分かれるのです。

同様に確からしい

ところでこの「同様に確からしい」は、高等学校の生徒だった頃の数研出版株式会社の教科書「確率・統計」で「一般に、試行において、いくつかの事象のどれがおこることも同じ程度にきたいできるとき、これらの事象は「同様に確からしい」という」と説明されています。

一般的な感覚で、サイコロの出目は「同様に確からしい」とすることは受け入れられますが、実際のところ、確証はありません。

あくまでも経験的なものということです。

例えば、サイコロの出目を「同様に確からしい」とすることに、敢えて穿った疑義を差し挟むとすれば、各目の窪みにより、純粋な立方体とは言えないとか、窪みにより空気抵抗が変わると言ったことなどなどが考えられます。

ここまでのお話で理解したいことは、二つです。

  • 同じ確率の情報を手に入れたとしても人によって判断が異なる場合があるということ
  • そもそも確率の前提条件である「同様に確からしい」は文字通り「確からしい」であって確証はないということ

さて掲題に含めた科学という言葉ですが、科学は、仮説、検証、仮説、検証の循環を前提としたあくまでも「同様に確からしい」を基礎としたものであるということです。

科学は「確からしい」

つまり、どれだけ実験を繰り返し、統計を取り、検証したとしても、あくまでも「確からしい」という域を出ないということです。

先日スマートフォンとパソコン(PC)で通信する為に、USB-USB TYPE-Cケーブルを購入しました。掲記された表現に「屈曲耐久テスト2万回以上クリア!!」があります。

これは極めて誠実な表現で、事実を有るが儘に伝えていると言えるでしょう。

「断線に強い!」ともあります。これを「何回曲げても断線しない!」と表現していないことが重要です。

「2万回以上断線しないらしい」とは言えても、2万回以上断線しない確証はありません。

今回は、通信用ケーブルを例示しましたが、医薬品なども同様です。

深刻な結果をもたらすもの

仮に医薬品が人体に直接的に影響を与えることから、通信用ケーブルよりも遥かに多くの検証を行ったとしても、確からしさが増すだけで、確かなものにはなり得ません。

科学的知見が真理には達しえない為に、認可制度や許可制度があると言っても好いでしょう。

要するに「確か」には出来ないから、「確からしさ」に基準を設けるということです。

さて、サイコロのお話で、同じ確率でも人によって判断が異なる場合があることについて触れました。

長期的に見れば、確率に軍配が上がる一方で、短期的、それも次の一戦に絞れば、価値観に依って選択が異なることを指摘しました。

同じことが、科学的知見について言えるのです。

医薬品

例えば99.9%の確率で有効な薬が、あなたには副作用が出るかもしれない。

確率で見て、問題の出る可能性が0.1%だから大丈夫と見るか、0.1%でも危険性があると見るかは個人に依ります。

しかも見るべきは確率だけでは無いのです。

自分には何か問題が起こると直観する人が居るかもしれません。

機会を提供することは好いことだと言えましょうが、強制してはいけないということです。

もう一つ、例示しておきましょう。

地球環境

地球環境に関するものです。

科学は「確からしい」ところまでは到達できますが、確かなところまでは到達できません。

どんなに確からしく思われたとしても、覆ることがあると言うことです。

従って、深刻な状況を招く可能性が有ることは、行ってはいけません。

遺伝子組み換え種子などがその一例です。

検証には常に前提条件が付いて回ります。必要条件を全て拾い上げることは不可能です。

しかも仮にすべての必要条件を拾い上げて検証したとしても、「確からしい」という域は出られません。

確からしいだけで、深刻な事態を招く可能性が有ることは、行ってはいけないのです。

況してや、全世界を巻き込むような試みを一国や複数国らの独断で行うことは許されることではありません。