反経済至上主義的考察|魂が抜けると顧客は増長する

魂

ちょっと想像してみてください。

あなたの手には、これまで使ってきた手袋があります。

長く使ったこともあり、綻びたところが見られます。

この手袋をあなたならどうしますか。

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何故クレーマーが増えたのか

あなたが即座に、この手袋を処分して新しいものを買うと結論を出したとすると、あなたの心は何か大切なものが欠落してしまっているのかもしれません。

どういうことかと言いますと、この手袋がどのようなものなのか、未だ全く確認されていないからです。

たかが手袋、使えなくなったら捨てて新しいものを買うのは当たり前では無いか。

そう思うとしたら、この手袋に何らかの背景があったとしたらどうでしょう。

作り手の思い

この手袋が、誰かあなたの大切な人が、あなたの為に編んでくれたのだとしたら、作ってくれたのだとしたらどうでしょうか。

できることならば繕って使いたいという思いが、頭を過るのではないでしょうか。

あなたの母親が、あなたの恋人が・・・あなたの為に一生懸命に作ってくれたのだとしたら、簡単には捨てられないでしょう。

形あるものはいつかは壊れる。使えなくなったものにいつまでも固執しているとゴミばかりが溜まる。

確かに正論です。しかしながら、一方で捨てるには忍びないと感じる何かを自覚したいのです。

それは作り手が込めた思いと言って好いでしょう。

工業製品

想像しやすいように手袋をあなたの大切な人が、あなたの為に作ってくれたものだとしました。ところで、これが工業製品だったらどうでしょうか。

多少の手仕事は含まれるものの、大部分は機械で製造されるとします。

この場合には、購入に伴う物語が存在すれば、多少話は変わってくるかもしれませんが、廃棄処分するのにあまりためらいを感じないかもしれません。

物を捨てるということに固有の心の痛みは感じて欲しいものですが、あなたの大切な人が手塩にかけて編んでくれた手袋に感じるような作り手の思いは感じないでしょう。

職人の仕事

さて、あなたは、手袋を作る職人の仕事を毎日目にする環境にあるとしましょう。

通勤、或いは通学に際し、職人が丹念に手袋を作っている姿を見かけます。細かいところまで注意を払い、丁寧に仕事をしている有様が看て取れます。

あなたが手にしている手袋が、この職人の手のものだったと分れば、ぞんざいには扱えるものではないでしょう。

あなたの大切な人が作った手袋と同等とは言わないまでも、作り手の思いを感じ取ることができるはずです。先ずその点で、工業製品とは一線を画します。

更に、作り手の思いとは別に、職人が丹精込めて作り上げた品物には、軽くは扱えない威厳のようなものが存在するのではないでしょうか。使い手や見た者の心を動かす何かです。これは本来、作っている光景を目にしていないとしても、品物から伝わってくる性質のものです。この点でも工業製品とは一線を画します。

但し、これについては感じ取る為に、相応の鍛錬が必要となります。職人の仕事とは、誰が見ても分かる代物では無く、一定の眼力とでも申しましょうか、見る目が養われている必要があります。違いが判るということです。

劣化と廉価

古くは商品と言えば、職人の手によるものでしたが、現代ではほとんどが工業製品に変わってしまいました。廉価を求めて多少の劣化と引き換えに手仕事から工業製品に換わって行ったということです。

売り手の思い

ここまで、商品の使い手、買い手の視線で見てきましたが、作り手、売り手の視点の変化がとりわけ重要です。

作り手の思いの込められたあなたの大切な人があなたの為に作った品物は、或る意味で、あなたの為にしか存在しません。

一方でその対極とも言える工業製品は、対価さえ支払えば、誰でも買うことができます。

誰のためでもあって、誰のためでも無いのです。

さて、職人の仕事はどうでしょう。

職人の作った物は、本質的にはその仕事を理解する者の為にあります。

その性質から、職人は、自らの仕事を理解できる者を養う必要があります。

客に迎合することで価値は損なわれていく|商業主義の末路 で紹介した和菓子職人がその一つの体現者と言えるでしょう。

職人一人一人が必ずしも啓発活動を行うわけでは無いものの、真摯に本物を作り続けること、本物を提供し続けることによって、本物を愛でる者を養っていくのです。

売りたくない

作り上げた品物に魂が込められていれば、誰彼構わず売りたいという欲求は減退します。

己の仕事の真価を理解しない者には手にしてもらわなくて結構という潜在的な思いが擡頭するのです。

ラーメンの鬼

しばしばテレビ番組に登場していた今は無きラーメン職人佐野実さんのラーメンに対する姿勢がその一つの典型でしょう。

彼の考える作法に則ってラーメンを食べない客を叱りつけます。客に迎合することなく、己の信じるラーメンを提供するわけです。

食事としてのラーメンと考えると、食事に際して客を萎縮させるたりすることはいかがなものかと思われるところもありますが、きちんとした食事としてのラーメンと向き合う姿勢という意味では、正しいとも言えるでしょう。

そもそも飲食店で、新聞、雑誌、漫画を読みながら食べるというのは頗る失礼なことです。

礼を失した客には食べてもらわなくて結構という考え方は、自身が携わっている料理と真摯に向き合えば、佐野実さんならずとも、必然的に至るものだからです。

心を込めて作るということ

分かりにくければあなたが誰かに食事を提供することを想像してみれば好いのです。

レトルト食品を湯煎したり、レンジで温めたりしただけのものであれば、テレビを見たり漫画を見たりしながら、上の空で食べられたとしても腹は立たないでしょう。

一方で、美味しいものを食べてもらおうと、下拵えし、てづから出汁を引いて作った料理を、賞味するでもなく、漫然と喉に流し込まれれば、憤るのも当然です。

食べさえすれば好い、食べられさえすれば好い食いものと料理は違うのです。

要するに価値を希求して作り上げられたものは、ただ消費されれば好い訳では無いというところが大切です。

仕事から魂が抜けたから客は増長した

さて、売れさえすれば好い工業製品に対し、必ずしもただ売れることを望まれているわけでは無い職人の仕事。

そして故佐野実さんの支那そばやを見ても分かるように、単なる工業製品を求める顧客層とは質が異なります。

支那そばやの顧客は、どこのラーメンでも好い訳ではありません。支那そばやのラーメンを求めて訪れています。

工業製品が、謂わば顧客が買ってやるものであるのに対し、職人の仕事からなる品物は買う、場合によっては買わせていただくということになります。

本来的では無い扱い

当然のことですが、職人の仕事も一般に求められる度合いにより、工業製品のような売られ方をすることもあるでしょう。

しかしながら、職人が手を抜かず、丹精込めて作り続ける以上、決して品物に込められた思いは抜けません。

つまり、売れさえすれば好い売られ方をしていたとしても、不本意な気持ちを持ち続けるはずなのです。

店舗であれば、鬱屈した思いから、時として顧客と衝突することがあるかもしれません。しかしながら、そんな鬱屈した気持ちは仕事に魂を込めたからでもあるのです。

仮に職人が直接販売に関わらずとも、職人仕事の真価を理解するものであれば、ただ売れれば好いという売り方にはならないでしょう。

品物の良し悪しの判る顧客にこそ手にしてもらいたいものだからです。

するとただ売れれば好いという売り方とは一線を画する売り方になるはずです。

客を選ぶのは売り手

客なら誰でも良い訳では無い。

そんな売り方をすれば、自ずと敷居は高くなって行きます。品物の良し悪しを理解しない者にとって、心理的な障壁が出来、それが高くなって行くというわけです。

結論:作り手から魂が失われた結果、顧客は増長した。

つまり何故クレーマーが増えたのかと言う問いに答えるとすれば、工業製品が主流になることで、作り手、売り手の地位が相対的に下げられてしまったと言うことです。

より良い生産活動を可能にするためには、生産を人の手に戻すことです。

手作業とは言っても、何ら技術もなく、手続きをなぞるだけのものには魂は篭りません。工業製品と何ら変わりがないのです。

てづから付加価値を生み出すことによってこそ、魂は込められるのです。