独りでは乗り越えられない壁がある|師を見つけることの大切さ

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合格観音の杓文字のイメージ
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第二次ベビーブーム時代の受験戦争

第二次ベビーブーム頃に生まれた私は、所謂「受験戦争」を経験しました。

受験校

校風として、現役で進学先を妥協して決めるよりは、一浪して国立大学、私立大学なら、早慶上智、つまり早稲田大学、慶応大学、上智大学に行った方が良いというものが有りました。

今は分かりませんが、母校では、確か当時の現役進学は、卒業生のおよそ四割で、大半は浪人していたと記憶しています。これを受けて「うちは進学校ではなく、受験校だ!」と揶揄(やゆ)するものもおりました。

ご多分に漏れず、私も四割の残りの方に属することになりまして、一年間予備校に通いました。

そこで出会った講師から学んだことです。

今回は、昔話を元に、お話を進めます。

本物との出会い~師の誕生~

予備校が始まると、初めの一週間、講師の方々との初顔合わせになります。

初めの授業が月曜から金曜と終わり、最後は土曜日の英語の授業だけが残っていました。

合格観音のしゃもじをイメージ予備校のパンフレットにはしゃもじを片手に写っており、合格観音と称しているようでした。

それを見ていた私は、キワモノの類(たぐい)の講師だろうくらいにしか思わず、あまり期待していませんでした。

ところがです。

講義が始まって、印象が一変しました。

英文法の担当だったのですが、講義が開始されると直ぐに目から鱗が落ちました。

この文型が使えるようになるには・・・
ここがポイントで・・・
こういう意識を持って・・・
こうイメージするとこの文型が使いこなせます。

今までの英語の授業の中で、文型を使いこなすという観点、英語を使いこなすという観点で、授業が為されたことはありませんでした。

現在の英語教育がどうなっているかは、知らないのですが、当時は、文法を解析するような授業が主流で、半ば「英語の評論家になるための授業」と言ってもおかしくないような内容のものが殆どでした。

この人は本物だ!

私は直観し(直観であって、直感ではありません。)、この人の言う通りやってみようと決心しました。

師は独り立ちできるまで導く

この講師のことを、人にお話しする際は、常に「恩師」と呼んできたので、ここでも、以降は、師と呼びます。

師は、國弘正雄氏と面識が有り、國弘氏が勧めていた只管朗読(しかんろうどく)を重視していました。

それは、英語学習に際して、音読することです。

師は、大学受験生が、一年間の受験勉強期間の中で出来ることとして、

1ページの英文を30回音読しなさい。
音読を一回したら、正しいという字を作る形で、きちんと書いて、回数を数えなさい。
それを100ページ集めなさい。
とりあえず、私の言う通りやってみなさい。
1ページを30回音読してみたら、多分、何かが分かるだろう。

と仰っていました。

声に出して読むだって!?

何の意味があるんだい!?

と心の声が叫びましたが、既に私は、

「この人の言うことを信じてみよう。」

そう思っていましたから、帰宅後、やってみました。

ところが、何も分かりませんでした。

それを師に話すと、

正しいという字をちゃんと書いた?
そして、30まで数えた?

「いいえ」と答えると、

多分、30回も読んでいないよ。
少し読んでも、30回読んだ気分になるものなんだ。
帰ったらやってみて!

家に帰って、実際に、正しいという文字を書きながら、音読回数を勘定しながら、音読を続けました。

確かに、師の言う通り、5、6回読んだだけで、随分と読んだ気分になりました。

師はこの為に、正しいという文字を書かせたのでした。

実際、1ページを30回音読した結果・・・確かに、分かりました。

そして、30回音読した1ページを10ページくらい集めた頃だったでしょうか。

1ページ30回の音読では、足りないと感じ、60回、90回と音読しました。

その結果、学習を進めていくうちに、進むべき方向が自ずと見えてくるようになったのです。

迷いが出ると、師に相談し、一度は通ってきた道だとばかりに、的確な教えをいただけました。

英語の成績は目覚ましく上昇し、大学入学試験は無事突破できたのです。

題(タイトル)に「師を見つけることの大切さ」とした意味は、お分かりいただけたでしょうか。

念のために敷衍(ふえん)します。

師を見つけることの大切さ

英語学習の方法論が分かっていない段階が有りました。

その現状を乗り越えるためには、「自分では何故やる必要があるか分からないこと」にひたすら取り組む必要が有りました。

自分自身で、「この人の言うことを信じてやり遂げよう」という気持ちが無ければ、恐らくは途中で投げ出してしまっていたことでしょう。

教育では、「理由は分からないけれども、ひたすら取り組まなければならない」段階があります。

しかし、当たり前の話ですが、「人は理由が分からないことに、ひたすら取り組むことは出来ません」。

それを乗り越える為に、「師の教えに対する信頼」が求められるのです。

一般に独学だと時間がかかるとされるのは、この点だと思います。

ただ、自分が師と仰げない人から習うのであれば、せいぜい不明事項の照会くらいにしか役に立ちません。

要するに調べ物の代行を受け持ってもらえるということです。

上掲の恩師の話については、まだまだ解説し足りない部分も有り、そして更に他にも、お話ししたい内容があるのですが、今回はこの辺で終わりとさせていただきます。