法的にどうなのかが連呼される社会は最低ライン-法律という名の愚劣

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高次の価値観
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法的にどうなのか

「法的にどうなのか」と書かれた記事が近頃やたらに頻出しているように感じています。

法律に照らして考えるという行動そのものは悪いことではないのですが、より高次の価値判断が置き去りになっているように感じられることは問題です。

法律の位置付け

そもそも法律というものは、最低線での決めごとです。関わりの無い人間同士が、協議では解決を見ない場合に拠り所となる判断基準です。

従って、できることならば法律に拠らない、より高次の価値観で判断したいものです。

ピンと来ない方のために簡単な例を挙げましょう。

スポーツマンシップ

スポーツで、例えば高校野球で、全打席敬遠された選手がいた場合に、

ルールに則っていれば、何をやっても良いというのか!?

と発言された場合、ルールでない或る価値観を念頭に置いています。つまりスポーツマンシップ。

ここでは敬遠の是非について、言及するつもりはありません。大切なことは、ルールとは別の次元で考えられている価値観の存在です。そして、その発言者が、聞き手もその存在を認識していることを前提として居ること。

法律と倫理

一般的な話に戻せば、ルールは法律、スポーツマンシップは倫理観とでも申しましょうか。

コミュニティが上手く機能していれば、法律に拠らない、より高次の価値観で判断されるよう調整が働きます。

法律的にはそうかもしれないが、法律の通りには行かないんだよ!

かつてはしばしば聞かれた成句フレーズです。この言葉が聞かれ無くなった代わりとして現れたのが「法的にはどうなの」です。

コミュニティで共有する価値観

これは、コミュニティで価値観を共有しているから、コミュニティが是認するのです。

ところが、コミュニティが上手く機能していなければ、居直りに対処できず、最低線である法律が準拠される価値観になってしまいます。

従来の日本人は、恥ずかしいと感じることを恐れていましたから、恥ずかしくない行いを心掛けていました。

法律的に問題が無くても、人として恥ずかしいと感じる行いは、自ずと控える傾向にありました。

今日では、恥ずかしいという感性が失われ、居直りが横行しています。法に拠らない抑止効果では、歯止めが利かない社会に成り下がっています。

つまり、人としての感性による抑止効果は失われ、最低線である法律の登場する場面が著しく増えたと言っても良いでしょう。

子供を叱らない大人

近頃ではもう言われることも無くなったのかもしれませんが、かつてはしばしば、大人が他所の子供を叱らなくなったと言われていました。

時として、大人がだらしなくなったなどとも言われました。

実は、これも先の話と同じ根の話なのです。

例えば、街中で問題行為を行っているやくざやチンピラに遭遇したら、あなたは注意するでしょうか。

相手に注意するという場合には或る前提が必要です。相手と同じ価値観を共有できるという信頼が前提条件になるのです。

だから、仮に問題行為を行っていても、注意せず黙殺するわけです。これは、獣が庭を荒らしていても注意しないのと同じです。可能ならば駆逐するのでしょうけれども、教え諭すことはしない筈です。

子供はもはやモンスターかエイリアン

子供についても同じことが言えます。注意して聞く子供と思えば、他人の子供でも注意することでしょう。

聞かない子供だと思えば、黙殺します。要するに、言葉の通じる人間として見ていないということです。

それは、取りも直さず、社会としても、子供たちを教育を通じ価値観を共有させていくという暗黙の前提が失われているということです。

それを象徴するのは、自分の子供が迷惑行為に及んで、注意した善良なる市民に逆切れして応じるモンスターペアレント(ツ)でしょう。

法律は、価値観を共有していない者同士で有効な判断基準です。

日本は従来まで、単一民族なハイコンテクストの文化を営んできました。

これは高次の価値観を実現するに当たって、非常に有利なところです。法律に拠らないコミュニティの持つ価値観で上手く調整してこられた。ところが、より高次の価値観が共有されず、最低ラインとも言える法律にまで、判断基準が落ち込んだという凋落ちょうらくぶりです。

法の網の目

法の網の目を掻い潜ってという言葉があるように、法律には穴が有り、完全無欠ではないことは周知されている事実です。

それにもかかわらず、法的に、法的に、法的に・・・と連呼されているのは、高次の価値観ハイコンテクストが共有されず、社会全体での判断基準が最低線まで落ちていることに他なりません