鯨とイルカを何故特別視する!
イルカの追い込み漁を禁止した世界動物園水族館協会や我が国の捕鯨船に海賊行為を繰り返すシーシェパードは肉は食べないのでしょうかね。鯨やイルカが可哀想だという同じレベルで豚や牛だって可哀想だというのが日本人の感覚ではないでしょうか。
鯨やイルカを特別視することの
家畜を育てることは残酷ではないのか
食べるために家畜を育てることが何故残酷で無いのか理由を教えて頂きたい。
日本人は四足の動物の肉は食べなかった
元来、日本は牛や豚といった四足の動物は食べませんでした。四足の動物を食べることを持ち込んだのはここで云う「国際社会」の一部でしょう。
当時の日本からすれば、牛や豚を食べるなんて可哀想。何故そんなことができるのでしょう。そんな感覚があり、今の鯨やイルカについて言われたようなことを言えたはずです。
さてでは「国際社会」として、四足の動物を食べることは残酷であり、禁止事項に決議しましょうか。
家禽
四足の動物を食べることを残酷とするなら、家禽は残酷ではないのでしょうか。
残酷に思う人もいると思うのですが如何でしょう。
残酷に思う人がいるという論理
ここで注意して欲しいのは残酷に思う人もいるということです。
鯨を食べることを食文化としてきた日本人にとっては、鯨食は豚や牛を食べることと大差はありません。しかしながら、我が国の伝統の食文化である鯨食文化が「国際社会」から圧力をかけられ衰退気味になっています。
ここで大切なことは、「鯨を食べることを残酷に思わない人がいる」ということです。
鯨を食べることを残酷に思う人もいれば、鯨を食べることを残酷に思わない人もいるのです。
家禽も食べることを残酷と思う人もいれば、家禽を食べることを残酷に思わない人もいます。
魚介類も同じです。
また、エスキモーは
動物愛護主義による菜食主義の狂気性
動物愛護の観点で、菜食主義になるものもいるようです。では何故、植物は愛護の対象にならないのでしょう。
動物が可哀想で、菜食主義になるというのなら、植物も愛護して鉱物を食すか断食すれば良いのです。
あくまでも動物愛護も菜食主義も単なる自己満足です。
悲しいことですが、生きるということは、必然的に何らか生き物の命をいただくことを意味するのです。
ジャイナ教に見る不殺生の徹底
仏教では
ジャイナ教のアヒンサー
以下はウィキペディアより抜粋・引用です。
アヒンサー:生きものを傷つけないこと。
「出家者は路上の生物を踏まぬようにほうきを手にする」という説明が各所にみられるが、実際には道を掃きながら歩くわけではなく、座る前にその場を払うための道具である。とはいえ、これはアヒンサーの徹底ぶりを象徴している。食生活はジャイナ教の生物の分類学上、できる限り下等なものを摂取すべきであり、球根類は植物の殺生に繋がるため厳格なジャイナ教徒は口にしない。
アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanaa)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。
何が可哀想で、何が可哀想でないかは、宗教観に依存するか、場合によっては単なる感傷ではないでしょうか。
例えばキリスト教で、食べて良いとしたものでも、ジャイナ教ならば食べてはいけないのです。
何を食べて何を食べないかを決める絶対的な価値尺度は存在しません。
鯨やイルカを巡る問題は、一種の宗教対立です。
或る一神教が存在した場合、他の一神教も同じ絶対性を持って真理を主張するのだということをそろそろ認識しない限り紛争は治まりませんし、無くなりません。
緩やかな宗教の国日本
我が国日本は信仰や宗教観について聞かれると、ともすると無宗教などと答えてしまうなど宗教観等が比較的弱い国柄です。
それは単に宗教活動や信仰が言語化されていないだけで、無宗教という人でも無自覚的だけれども
ここではとりわけ日本人の宗教観を纏めたいわけではありません。何が言いたいかと言いますと、日本人は宗教が無いわけではなく、少なくとも鯨を食べることやイルカを捕まえることに関していえば、「国際社会」が牛や馬を食べることと同じくらいに考える世界観を持った宗教があるという一点です。
捕鯨やイルカ漁は今始まったものではなく伝統と歴史に裏付けられたものなのですから、「国際社会」がとやかく言おうとも、「宗教観が異なるようですな」で一蹴すれば済むことです。
※ 記事を通じて「国際社会」と国際社会を「」で括っているニュアンスを汲み取っていただけると幸いです。(追記 5月22日)