違和感を覚える言葉から見る病理|「~していいです」

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他者の存在しない世界
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意味が分からない

近頃しばしば見かける光景に奇異なものがあります。

或る人が自身では判断がつかずに、上司や同僚などに、或いは情報をより多く持つ者に、判断を仰いだ際、

~して(で)いいです。

と応じるものです。

当初は、若者言葉なのかと思っていたのですが、年配の人も使っているのを見かけました。

お茶を出すことは望んではいない

ピンと来ない方のために具体例を挙げます。

例えば「お客様にお出しするのは、珈琲が宜しいでしょうか、緑茶が宜しいでしょうか。」の質問の答えが、「緑茶でいいです」であることに対して覚える違和感です。

コンテクスト

正しくは、「緑茶が良いと思います」であったり、「緑茶をお願いします」である筈なのですが、しばしば見かけるのは、「緑茶でいいです」なのです。

ここで言う「いい」はどのような意味を持つのでしょうか。

先ずは「緑茶でいいです」が正しい場面を考えてみましょう。

「お出しするのは緑茶が良いと思うのですが、如何でしょうか」の答えであれば、「緑茶でいいです」で構わないでしょう。

また、例えば、暗黙の了解として、用意してある珈琲が高級品で、緑茶が安価なものであるという状況であるならば、「緑茶でいいです」も意味を持ちます。

前者の「お出しするのは緑茶が良いと思うのですが、如何でしょうか」への回答であれば、「緑茶で良いです」は質問者の意向通りで良いという意味になります。一方、後者であれば、わざわざ高いものを出す必要がないという意思表示の意味になります。

わざわざ品出しはしたくない

「~していいです」も同様です。例えば、ショーケースに品物を出すか出さないかの判断を仰いだ際の答えが、

出して良いです。

こういった答えを返しているのを見かけます。質問者は、特に品物を出したいという意向があるわけでは無く、品物を陳列すべきか否かの判断を仰いだ状況です。それに対しての「品物を出して良いです」なのです。

品物を陳列する必要のない状況での「出さなくて良いです」であれば、意味が通じます。「出すには及びません」であり、「あなたが手を煩わす必要はありません」でもありますから、「出さなくて良いです」で特に違和感は覚えないでしょう。

一方で、質問者が品物を陳列したくてうずうずしている状況下にあれば、「出していいです」でも意味が通じるでしょう。「あなたの意向通りにして構わないですよ」という意味での、「出して良いです」だからです。

品物を出したくてうずうずしているはずもない、単なる業務上の質問に、「出していいです」だからこそ違和感を覚えるわけです。

この品出しの例で、「出していいです」が意味を持つとすれば、例えば、質問者が発案した新商品であるといった、質問者が品物に対して何らかの思い入れがあり、早く陳列したくて仕方が無いという暗黙の了解が双方に有る場合には、意味を持ちます。

不適切な「~していいです」や「~でいいです」という使い方は、元々存在する言葉のニュアンスを欠落させてしまいます。

肯定と否定は対称ではない

例が適切かは分かりませんが、英語の表現で、「have to (do)」 と「must (do)」が「しなければならない」を意味するのに対し、「have not to (do)」は「する必要がない」であり、「must not (do)」は「してはいけない」となります。

「~していいです」は、元々の肯定文と否定文の表現の違いを著しく混乱させ、意味を不明確にしています。

単なる言葉の乱れではない

これは単なる言葉の乱れなのでしょうか。言葉の乱れも一因ではありましょうが、原因は別のところにあると考えています。

他者の存在

過去記事 ¶ 他人のコンテクストを無視する人々指摘したように、このような言葉を発するのは、他者が存在しないからではないかと疑っています。

それというのも、先の緑茶や品出しの例でも分かる通り、言葉を正しく使い分けるためには、質問者の意向に対する理解や双方の了解が必要です。質問者の意向や双方に暗黙の了解があれば、正しい回答が可能なのですが、質問者の意向や相互の了解が無い状態では、正しく回答することはできません。

勿論、言葉というものは、知的に理解すれば、一応の体裁を整えることはできますから、他者が存在しない人でも正しい受け答えをすることは可能です。

一方、他者の存在をかえりみる感性があれば、つまりは他者の存在が意識されれば、「~していいです」や「~でいいです」といった相手のコンテクストをないがしろにした答え方はしないでしょう。言葉を発した時点で、自ら違和感を覚える筈だからです。

相手の気持ちに対する感受性

「~していいです」や「~でいいです」と回答する人を全て、他者の存在しない人と断じるのは行き過ぎですが、相手の気持ちをかえりみる能力で劣っていると表現したら言い過ぎでしょうか。