権利ばかりを主張するところに平安は無い

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道

これまで日本社会では、相手に権利を主張することを良しとせず、お互いをおもんばかることで、足るを知ることを良しとしてきました。そのことでお互いの領域を侵さないよう努めてきたのです。

お互いが最大を目指すことなく相互間に緩衝地帯を設ける知恵として表現したのが ¶ 目一杯の利益を目指す強欲のツケ|猿化する日本社会の冒頭部分です。

その中で、心理的な緩衝地帯として気遣いについても触れました。

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相手をおもんばかることの大切さ

自分のしていることが分っていない

以前に東海道新幹線で名古屋から東京に向かっていた時のことです。はす向かいの3人席に親子連れが座っていました。つまり左斜め前方です。いつも通り満席に近く混雑した車内では、子供は携帯ゲーム機かスマートフォンでゲームに興じていました。

容易に想像が付くと思いますが、ピコピコ鳴っているゲーム音は無関係の人々にとってとても耳障りなものです。気にならない人もいるのかもしれませんが、気になる人も多いはずでしょう。そのことは当然に察することができる水準レベルの事柄です。

一昔前ならば

人様に御迷惑だから、音を消しなさい。

が親の口から当然に出て来たひと言です。

更に昔にさかのぼれば、或いは公衆の場で子供がゲームに興じているのを恥じてゲーム機を仕舞わせたのではないでしょうか。

仕舞わせることは、人様の迷惑以前に羞恥心しゅうちしんの問題なので本題から逸れるので深入りしませんが、消音させることは相手、ここでは周囲の人々を慮っての行動と言えるでしょう。

ところがこの状態が放置されたままになるのは、倫理観の欠落した人が相手では、良くて不毛な論争、酷ければ人を巻き込んだ騒ぎに発展します。

目一杯の利益を目指す強欲のツケ|猿化する日本社会で紹介した

何であなたにそんなこと言われなければいけないの!?

という言葉は発せられないにしても、自分の好きにやることが何故悪いのだという主張をされたら、逐一道理を説かねばならなくなるのです。

酷いやからになると、

迷惑に感じているのはあなただけではないのか。

他の人は何も言わないではないか。

このような言い草が出てくることもあるでしょう。

遠慮していて言わない或は言うのに心理的抵抗が有るといったところが実態なのですが、思い至らないのでしょうか、それとも分かっていてとぼけているのでしょうか。

平衡感覚バランスに欠けている者、或いは自分の好き勝手にやることが自由だという考えの持ち主に、迷惑行為を辞めさせることは難しいということです。

あまりに分かり易く卑近過ぎて何を言いたいのか不審に思うかもしれません。

権利だと考えていることの裏側

権利だと考えていることの裏側にあるものを意識したいと云うことです。

一見すると車内で音を鳴らしてゲームに興じること自体に問題が無いと感じるかもしれません。では質問します。車内の大勢がピコピコ電子音を鳴らしている状況を想像してみてください。穏やかに座っていることができると思いますか。きっと大半の人の神経に障ると思います。※

※ここで言いたいことは、1人なら良いのですか?3人になったら問題なのですか?例えば5人までなら許容できるとして、5人目までは良いのに何故6人目はダメといわれるのですか?早い者勝ちなのですか?放っておけば、こんな風に際限なく続くということです。大抵の人は迷惑かけないようにイヤフォン乃至はヘッドフォンを利用しますね。

子供がピコピコゲームをしているのを親が放置しているこの風景で見てもらいたいことは、一部の人が自分の権利と考えて行っていることが、多くの人々の不利益を招いている現象です。

原因を簡単に表現すれば、自分だけの世界では問題が生じないことでも、他者が存在する世界では問題の生じる余地があるという当たり前の事実が完全に無視されているということです。

他でも、在来線では、ラジカセでスピーカーからそのままラジオを聴いている老人を見かけました。その時は、迷惑に感じたというよりもむしろ驚きを覚えました。同時にもう何でもありの世の中になりつつあるのだなと・・・この場合もラジオを聴くこと自体には全く問題は無く、周囲の人々の平穏を乱すことが問題なのは言うまでも有りませんね。

作法や行儀ぎょうぎ

常日頃から自分が良いと思って行っていることが人に迷惑を掛けていないかどうか考える気持ちは大切です。ただ彼是あれこれ考えるのにも限界があるでしょう。時間的制約もあれば精神的負担もあります。

日々の行動に於いて時間的制約に囚われず、そして負担を軽減するために作法や行儀といったものは存在します。

またどこまでが許容されてどこからが差し控えなければならないかの尺度を与えます。

こうしておけば問題ないだろうから始まって、今回もこれでいいかなと自分を顧みる気持ちがあれば、負担なく迷惑をかけることは回避できるというわけです。

車内のゲーム音の話で言えば、全く気にならないという人も少なからず居ると考えられるからです。そこで作法や行儀の裏付けとなる慣習の存在があり、公共の場所では平穏を乱してはならないということから、静かにしているべきだという結論に導かれると言って良いでしょう。

車道の停止線

運転免許を持っている人は、停止線をイメージすれば分かりやすいかもしれません。

通常は、停止線の手前で停車すれば、大型車が左折する時、車の位置で迷惑をかけることはありません。停止線は、大型車の右左折うさせつ※などを勘案して問題の起きない位置に引かれています。※ 右左折・・・対向車の右折、交差点右から来た車の左折ですね。

場所によっては、交差点から大幅に下がった位置に停止線が引かれている場合がありますが、これは道幅や右左折の角度といったその交差点特有の条件を勘案しています。

ですから、その場所、その場所に相応ふさわしい位置に停止線は引かれているので、その後ろに停車すれば問題は起きないということです。

省かれる労力や手間コスト

停止線のおかげで、個人個人がその都度、停止位置を目測して決定する労力と手間が省かれているということなのです。

停止線の手前に停車するというのは、停車する時のルールです。法律や規則ルールは、人を縛るものと考えがちですが、法律や規則ルール労力や手間コストを省くという要素も大きいのです。

ところで、道路に、例えば落石による障害物が存在するなど特殊事情が生じた場合には、停止線より更に下がって停車した方が良い場合もあります。これは停止線で想定されている(前提している)条件と異なる状況だからです。大型車が来た場合、どの程度下がっておけば、邪魔にならずに右左折できるかを考えて停車するということですね。

当たり前の話でしたね。ただ単にルールを守れば良いわけでも無いということを確認しておきます。

相手を慮る心

話を元に戻します。車道の停止線は、作法や行儀ぎょうぎを意味します。つまり、一般的には作法や行儀に従って行動していれば、人様に迷惑をかけることは無いということです。

ところが、車道への落石同様に、いつもとは何か条件が異なる場合には、他者を慮って頭を働かさなければならないということです。そして他者が誰なのかも問わなければなりません。

お互いが相手(他者)を慮れば、衝突は起きにくいのです。

これは自動車も同様です。先の交差点の例で言えば、初めて訪れた道路では、交差点の癖は分からない場合が多いでしょう。道幅が広く直角に交差している交差点なら、特段の問題は無いかもしれません。

想定外は理由にならない

ところが、右左折したら急に道幅が細くなることや角度が急なことは、初めてならば走行してみなければ分かりません。その意味もあって、交差点進入時の徐行が義務付けられているのだと思うのですが、突然、通常想定している交差点と異なることが分っても、瞬時には対応できません。

仮にあなたが運動神経も判断力もよく、運転技術が優れていて問題が無いとしても、対向車が初めてその交差点を走行しているのだとして、突然予期できない動きをしたとしたら・・・不測の事態というものはあるものだと考えるべきでしょう。だからこその徐行です。

すべては相手が有ってのことです。

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