行き過ぎた自己責任論と寛容な社会

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タイの寺院
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「当たり前」の理由

バンコクの乗り合いバスにて

10年くらい前の話になるでしょうか。

タイのバンコクで乗り合いバスに乗った時のこと。今も忘れられない出来事がありました。

当時、乗り合いバスには、日本人はあまり乗りたがらなかったようです。戦後当時を知っているわけではありませんが、戦後間もない頃の日本を彷彿とさせるような風景で、バスは戸が閉まらず、走行中のバスに飛び乗る人もありました。勿論、エアコンはありません。

タイのバスの全てでエアコンが利かないわけではありません。ホアヒン方面、正確にはプラチュアップキリカーン県に赴いたの折に乗車した長距離バスでは、しっかりとエアコンが利いている上に、車内テレビでの映画上映までありました。

尤も、設備は近代的でしたが、2車線道路に3台のバスが並ぶような走行があったように見えました。郊外ではバンコク市内の運転の凄まじさとはまた異なった驚きがありました。

話を戻します。

くだんの乗り合いバスで見た光景です。

若い女性と老婆

私は知り合いとバスの最後部の広い座席の真ん中に腰かけていました。

最後部から見てバス中央左に乗車口があります。日本の一般的な乗り合いバスを想像してくれて構いません。乗車口には手摺てすりがあります。

外から見て乗車口右の手摺の直ぐ後ろには、二人掛けの座席がありました。そしてそこには既に二人が座っていて、通路側は若い女性でした。

バスが停車すると老婆がゐざるように乗り込みました。

その時、まさに老婆が乗り込むと同時に、若い女性は立ち上がって脇によけると同時に老婆が彼女の座っていた座席に腰かけたように見えました。

この間の二人は無言です。一言も言葉を交わした様子は見えません。

バスは何事もなかったかのように走り出しました。

初見での印象

若い女性と老婆の動きを見ていて、初めは酷く驚きました。

そして、しばらくして驚いたことを恥じました。

驚いたのは、老婆が一言も発しなかったからです。何故、老婆はお礼の言葉に口にしないのだろうと思いました。それは酷く無礼なことに思われたのです。

そして、しばらく考えてみると、事の真相に気付きました。

当たり前のこと

タイの社会に於いて、それが言い過ぎならば、少なくとも当事者であるこの若い女性と老婆にとって、大した行為では無く、ごくごく当たり前のことだったということです。

タイは南部のイスラム教徒など他宗教の人もおりますが、大半は仏教徒で、信仰心が篤いことで知られています。

タイ人と言えば、正面で手を合わせてขอบคุณครับありがとう(男性)やขอบคุณค่ะありがとう(女性)と頭を下げ乍らお礼を言う姿を想像される方も多いのではないでしょうか。

謙譲の美徳

またタイ文化の特質として謙譲の美徳があるそうです。嘗て何処かで読んだことですが、大鍋を皆でつつくような料理があるということがその証の一つであると述べられていました。当時、その話を読んで得心が行った記憶があります。

若い女性と老婆の行動をごく当たり前の行為として理解するために、タイ文化についてもう一つ知っておくと分かりやすいことがあります。

水は高いところから低いところへ流れるという考え方です。

誤解があるといけないので予めお断りしておきますと、人は易きに流れるという意味合いではありません。

水は高いところから低いところへ流れる

富めるものは貧しきものに施しをするというと、欧米社会での富豪が莫大な寄付をすることを想像するかもしれません。ところがタイ社会では、日常生活の隅々にまで行き渡っていると言ったら分かりやすいでしょうか。

皆で食事をした時などに、お金を持っている人が払うのは当然という考え方です。ですから、食事をした際に、支払ってもらって当然という態度を取ります。文字通り有難いことではなく、当然のことだからです。「有難がる素振りすら見せない」とはタイ文化を知る或る日本人の言葉です。

少なくとも平均的な日本人であれば、最低でも形式的であるにしても礼は言うところでしょう。そうしないとご馳走してもらった方も収まりが悪いと感じる筈です。

僧侶専用席

他にも、バスの前方部には僧侶専用の座席が有るくらいの国柄です。

これら諸々に鑑みると当たり前の行為と判断するのが妥当だと考えられるわけです。

ところで今回は単にタイと日本の国柄の違いや文化的相違と結論付けたいわけではありません。

行き過ぎた自己責任論

近頃では極端な自己責任論が展開されているように思われます。誤った自己責任論と言っても良いでしょう。

少なくとも人間は、生を受ける時、産まれてくる処を選べません。

その後の運命、運命という言葉が理解し難いとすれば、出会いや縁という言葉で置き換えても良いかもしれません。出会いや縁は自ら作り出せる要素もありますが、作り出せない部分も大きくあります。自由意志では管理できない部分は必然的に存在するのです。

所与の条件は様々

喩えて言うならば、人生はポーカーゲームのようなものです。遊戯や賭け事に準えるとはけしからんと目くじらを立てずに聞いてください。

ポーカーゲームはディーラーに配られたカードで勝負します。人によって手札は異なります。開始当初から手持ちが何とかなるカードの人もいれば、どうしようもない手札の人もいます。

ゲームを進めて、何とかなるはずだった手札の人も、確率判断で正しかったとしても引き直したカードに恵まれず、勝負にならないこともあるでしょう。

勿論、逆に引き直したカードで一発逆転勝利を収めることもあるでしょう。

ですから、カードの巡り合わせという自分では管理できないものによって左右されるのです。

更に言うと、ギャンブルとしてのポーカーは何回もプレイすることで、確率論的に勝利に導くことは可能です。ところが、人生というポーカーゲームは一発勝負の様相を呈しています。

ポーカーゲームは一回一回の勝負は独立していますが、人生に複数回のチャンスがあるとしても、前回の結果は引き摺ります。この点が大きく異なるのです。

人生をポーカーに喩えるのは不謹慎かもしれませんが、自己責任論が行き過ぎるということは、結果に恵まれた人の強弁に聞こえます。

自分の力で何とかならないものの存在

今は亡き恩師の言葉ですが、

欧米人は一般的に自分の努力次第で何とかできると考えている。

その点が甘い。

努力するのは大切なことだが、人には自分の努力では何ともならない部分がある。

人には自分の努力で何ともならない部分があると云う部分が得に重要です。

恩師は人の努力では何ともならない部分のことを運命と呼び、

The attitude required is that of doing one’s best while leaving the issue of fate.

必要な態度は最善を尽くし、結果は運命に委ねることである。[拙訳]

というBertrand Russellバートランド・ラッセルの著書「The Conquest of Happiness幸福の獲得」にある一文を教えてくれました。

師は更に進めて「運命は変えられる」と宗教の世界へ入って行きました。誤解が無いように補足しておくと、運命が変えられると言っても自由自在と言うわけでありません。少なくとも改善できるという意味で、自己責任論を肯定するような意味合いは全くありません。

有るが儘

今の境遇は全て自分のせいというのを極端な自己責任論であり、今、日本社会に蔓延りつつある考え方だとすれば、少なくとも当時のタイの文化は、人間が生まれてきて今置かれている状態を有るが儘に受け入れて、肯定も否定もしないあり方に思われます。

頑張ったからお金持ち。だからお金を自分の為に使うのは当然。頑張らないから貧乏。だから生活が苦しくて当然。これが自己責任の社会とすれば、(事情に因らず)今はお金持ち。だから支払いを受け持つのは当然。(事情に因らず)今は貧乏。だから支払ってもらって当然がタイの社会でしょう。

実利的な在り方では無く、どうして生まれ、どこから生まれ、何のために生まれ、どこへ行くのかと云った人間の存在を宇宙的な視座で捉えれば、裕福であれ、貧しかれども今の境遇は何らかの必然で与えられたものと気付くのではないでしょうか。

現代社会に自己責任論が拡がりつつあるのは、宗教的なもの、超越的なものに対する感性の欠如、欠落の顕れに他ならないのではないでしょうか。

どのような宗教であれ、或いは宗教と呼ばないにしても、「何か必然で与えられたもの」を与えたものに対する畏怖があれば、極端な自己責任論にはなり得ません。

「『何か必然で与えられたもの』を与えたもの」は、神や仏と呼ばずとも好いのです。動的ダイナミックでも静的スタティックでも構いません。現代人は、何か不可知なもの、完全には知り得ないものの存在を改めて意識する必要があるでしょう。