総意としての商業主義|無くなりつつある日本

志士

陳腐に感じられる内容かもしれません。

頭では理解しているつもりでも、身に染みて分ってはいないのではと一般に見受けられることを、肌身に感じてもらいたいというのが主眼です。

もう一つ。

思い込みに支配されていても、気づきが与えられることで、根拠の無い思い込みであったことをきちんと認識できることがあります。

そんな気付きのきっかけとしてです。

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気付きが与える軌道修正

しばしば引用する逸話なので、ひょっとしたら初訪問でない読者諸氏は、読んだ記憶があると感じるかもしれません。

思いがけないところに思い込み

高等学校に進学したばかりの頃の話です。

高校野球だけ特別なのか

たくさんの新入生らが高校野球の公式試合の応援に出かけていました。

愛校心半分。

入学したことへの誇らしさ半分。

そんな心持ちだったのではないでしょうか。

何年かに一度ですが、全国大会、つまり甲子園に出場する高等学校でしたので、生徒たちが殊更、野球には関心が高かったこともあるでしょう。

県大会でも、皆は応援に行くのが当たり前という雰囲気がありました。

そんな或る日のこと。

同級生である友人から公式戦の応援に誘われました。

気が進まなかったので、断ると、

君には愛校心というものが無いのか。

あたかも応援に行くのが当たり前で、行かないことは愛校心欠如の証とでも言いたげな様相です。

最近の若い方々には想像しにくいかもしれませんが、当時は相撲や柔道と言った格闘技は別として、スポーツといえば野球という時代でした。

ですから、私が居た高校の事情は別にしても、言われている私としても、友人の心情が分らんでは無いという感じでした。

一方で、当時の私はバスケットボール部に所属しておりました。

自校のバスケットボール公式試合の応援に、他の部の人が来ていた試しはありません。

従って、野球だけを採り上げて特別視することには、大いなる違和感を抱いておりました。

そこで「では君はバスケットボールの大会の応援には来てくれるのか」と、意を決して反問したのです。

察しの良い友人は、野球を特別視した前提での愛校心についての自らの言葉のおかしさを認めました。

反問の意味するところを的確に理解し受け止めたのです。

論理と感性の相反

このような思い込みに支配された意思決定や行動は日常茶飯事です。

何故と一度反問されれば、考える機会に恵まれることになり、その根拠の無さに収まりの悪さを覚えます。

従って反芻はんすうすれば、必然的に本来の至るべき結論に辿り着くことができるでしょう。

ところが残念ながら、ほとんどの場合には、くだんの高校野球のような結末には至りません。

一般の難しさ

高校野球の話では、個人対個人の問題で、幸いにして論理の通じる関係です。

従って、対話を通じて、双方の納得する結論が出れば、至極当然のこととして結論に従うことができるのです。

つまり、理性的判断がそのまま行動に反映させられる環境です。

一方、思い込みに支配されている個人ではなく、一般を対象に思い込みを正すことは容易ではありません。

件の高校野球の話のように、一般を対象とした思い込みを例に話を進めましょう。

判断なき追従

異国から持ち込まれたクリスマスが好例でしょう。

クリスマスとは何か、何を意味し、何の為のお祝いなのか、理解することも無く「メリークリスマス」などと言っている人も少なく無いでしょう。

クリスマスは、キリスト教のお祝いで、救世主であるイエスの誕生日です。

(神からの御言葉みことばを預かる)預言者が伝えていた通り、イエスが生まれた。父なる神であり、その子であり、精霊であるイエスが、人間の贖罪しょくざいの生贄となって十字架に死すという物語の始まりです。

贖罪の生贄というと日本人の感覚からするとピンと来ませんが、元々はユダヤ教の過越すぎこしまつりに家畜をほふり生贄として捧げるという風習にならったものです。

本題から外れるので詳述は避けますが、日本人一般として、クリスマスの意義の極々さわりの部分すら共有されていないということは再認識できると思います。※

※ 仮にあなたが知っていたとしても、あなたの周りの認知度に思いを馳せれば足りるでしょう。

それにもかかわらず、当たり前のようにクリスマスが祝われているという現実です。

イエスより天皇陛下

日本という国柄を考えれば、自然に祝うことができるのは天皇誕生日だと思うのですがいかがでしょうか。※

※ 論点がずれるといけないので予めお断りしておきますが、今回は天皇論が主題ではありません。従来からの日本人的感性からすれば、天皇陛下を軽々しく併記すべきではないかもしれません。但し、同様のことを基督者も感じるでしょうけれども。今回は「日本」と「日本人」を題材として取り扱っているので、ご諒承願いたいところです。

しかし、残念ながら、

祝うべきは天皇誕生日であって、クリスマスでは無い。

クリスチャンでもないのに、イエスの生誕を祝うのは意味が分からない。

天皇陛下の誕生日をお祝いしようではないか。

このように主張すれば、変り者扱いされるのではないでしょうか。

理解と行動

ところが意外と一般も、理性的には、クリスマスを祝うことが無意味ナンセンスで、政治的立場などは度外視するという前提に立てば、天皇誕生日を祝う方が自然であると理解している[できる]ように思われるです。

件の野球の話になぞらえて言えば、野球の公式戦へは応援に行くものであるように、クリスマスは祝うべきものと思い込まれているが、根拠の無い思い込みだということです。

論理的帰結としては、異論を差し挟む者はそうそうは居ないでしょう。

ところが、日本国内ではクリスマスが大々的に取り扱われているという現実があります。

総意としての商業主義

掲題を「総意としての商業主義」したのは正にこのためです。

一般の認識、つまりクリスマスを祝うことに必然性が無いというものから、大々的にクリスマスが祝われているという現象に対する説明です。

これは何もクリスマスに限った話ではありません。バレンタインデーも同様ですし、最近、広められているハロウィーンもです。

いずれも商業主義に端を発したお祝い事であることは認知されていることでしょう。その旨を、したり顔で説明するのを目にすることも少なく無いのではないでしょうか。

実際にお祝いをしている人らですら、根拠の無い作り上げられたお祭りごとであり、単なる慰みと認識しています。

何故このようなことが起こるのでしょうか。

仕掛け人としての商業主義

先ず商業主義としては、

  • 販売促進(セールスプロモーション)の為にのイベントが欲しい
  • イベントは人を引きつけるものであって欲しい
  • できる限りコストは抑え効果を上げたい

ということがあるでしょう。

そうだとすれば、定期的に繰り返し行えるものであれば好都合です。

そこで根強くある欧米に対する憧れ、現在では欧米というよりも米国と云った方が好いのかもしれませんが、これを利用しているのです。

何もないところから何かイベントを作り出すよりも、何か歴史的に存在するものの方が取り扱いやすい。

そこで異国情緒のある舶来のイベントを催すということが発端ではないでしょうか。あたらずといえども遠からずだと思います。

価値の一元化

イベントを作り上げるに当たって支配的なのは、商業主義、経済主義的な価値観であることに留意すべきです。

実はこれを言いたくて長々と説明してきたのですが、商業主義以外の価値観は捨象されているということが重要です。

本来ならば、どういうことか、これは言わずもがなで察して欲しい、というよりは、何を当たり前のことをと一蹴されるくらいが望ましいのです。

捨象されている価値観は、例えば、日本のあるべき姿は何ぞやと云ったものです。

解り難ければ、明治維新に臨んだ幕末の志士を想像していただけば好いでしょう。

精神的な根

ところで、日本のあるべき姿についてですが、ここでは誰が正しい、誰が間違っていると云った議論を取り扱いたいのではありません。

各々が、思い思いの理想を胸に抱いていた、そしてその思いが志士らを突き動かしていたというところが重要なのです。

当時は様々な人々の思いがぶつかり合うことで、行く末が決まってきた。

日本の将来を本気で考える人々、憂う人々が居た。

そして彼らは志に命を懸けた。

根無し草

さて、大切なのは明治維新ではありません。

現代日本に欠けているものを、肌身に感じてもらえるように表現し、伝えることが目的です。

現代日本に欠けているもの

現代日本に欠けているものとは、商業主義が人々の行動を支配し、その行方には何の志向性も存在しないことです。そしてそこには責任も無い。

クリスマス、バレンタイン、ハロウィーンは些細な話に感じるかもしれません。

ところが相対的に雛祭りや端午の節句が後退しているのではないでしょうか。

一例を挙げますと、端午の節句に鯉幟こいのぼりを見かけることが、かつてよりずっと少なくなりました。

幼年期から雛祭りや端午の節句を祝って来た世代にとって、当初は異国情緒のあるクリスマスなどが新鮮だったのかもしれません。

しかしながら、年月が経つにつれ、幼年期の体験にも変化が見られます。

例えば今の子供たちは以前に比べ、雛祭りや端午の節句の存在は小さなものになっているでしょう。

幼年期からハロウィーンを見ている世代は、徐々に徐々に日本に所縁ゆかりも必然性も無いお祭りごとが自然なものだと思い込んでしまうでしょう。

過去記事 ¶ 需要の創造は必ずしも正しくない|現代社会の病理の根源を探る では、寿司屋の原風景やおふくろの味について触れています。

このような日本観の変質の是非を問うことに意味が無いとは思いません。

残るべきものが残るような時代では無い

経済至上主義者、商業主義者などは、しばしば市場の原理に任せれば、残るべきものは自然に残るものだと云った様なはばったい物言いをしますが、これは誤りです。

現代社会では、巨大資本の力で、無いものをあるように見せ、あるものを無くす、或いはあるものを無いように見せることすら可能です。

確かに難を逃れて残るものもあるかもしれませんが、残らないものが大半なのです。

例えば職人の仕事です。職人の仕事といっても全てではありませんが、端的に言えば、効率や採算よりも質を高めたもの。その何世代に亘って培われてきた高みは、決して効率的なものとは言えません。

お金がお金を産む一方で、お金によって意味世界は埋没させられていると言ってもいいのではないでしょうか。

商業主義、経済主義は、意味の世界とは無縁なのです。

商業主義がもたらす破壊の一例を ¶ グローバル化がもたらす格差|誰がコミュニティの破壊者なのか でも描きました。

死語になった和魂洋才

和魂洋才わこんようさい※という言葉があります。

※ 日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていくという意味の言葉である(出典:wiki

和魂洋才というのは、とうに死語になっているかのようで、あたかも和の心、日本人の心であるよりも洋の心を望んでいるかの如く見えます。

かつて舶来品に憧れを持ったのと同様、現在でも依然として欧米に対する憧れが支配しているようです。

単なる異国趣味であれば、別段、問題はないでしょう。

ところが、商業主義はそれに付け込み、憧れを助長し、和的なものを相対的に弱体化することで、和魂を死滅させようとしている様にも見えます。

一般も日本人であるよりも欧米人になりたいように見えることが多々あります。

日本語よりも外国語、特に英語が格好好いと思っているような人々も多いようです。※

※ 自らはろくに話せない外国語を格好いいと思って濫用するのは、かたはらいたいのですが、会社名や商品名などに外国語ばかりが用いられている現状には目を覆いたくなります。

営利主義、商業主義に身を委ねてしまうと、自分自身の真っ当な感性では、行き着くはずの無かった価値観にすら変質させられてしまいます。

商業主義は、一面としては効率化をもたらしますが、謂わば文化の破壊者としての顔を持っていることは、肝に銘じておかなければなりません。

「総意としての商業主義」ですが、商業主義を是認し続ける以上、精神的な根の無い状況は続きます。

謂わば、日本社会の総意として、根無し草を選ばされている、否、根無し草を選んでいるということです。