言葉というものは、必ずしも一様には受け取られません。同じ文言で有っても時として意味が変わってきます。
発せられた言葉の意味内容を定めるものは、コンテクストであるわけですが、コンテクストの一部として、発話者が誰か、誰が発した言葉であるかということが含まれます。
一方で、真実に発せられた言葉なら、誰のものであれ価値があるはずでしょう。
今回は、発せられた言葉の受け止めについてお話ししましょう。
掲題の中の「報・連・相」とは、一般に「ほうれんそう」と呼ばれる報告・連絡・相談の一文字目を繋げたものです。(念のため)
あなたが変えられること
嘘をつく子供
イソップ童話の「嘘をつく子供」※が好例を提供してくれるので、wikiから引用します。
※ 「羊飼いと狼」や「オオカミ少年」とも。
羊飼いの少年が、退屈しのぎに「狼が出た!」と嘘をついて騒ぎを起こす。大人たちは騙されて武器を持って出てくるが、徒労に終わる。少年が繰り返し同じ嘘をついたので、本当に狼が現れた時には大人たちは信用せず、誰も助けに来なかった。そして村の羊※※は全て狼に食べられてしまった。
※※ 日本ではイソップの童話であるとしながらも、狼に食べられるのは羊飼いの少年とする寓話が幾つも存在するそうです。実際、私もそのように教わった記憶があります。ところで、題名は、「ペーターと狼」と記憶していたのですが、これは別物でした。プロコフィエフの交響的物語の題名です。
「嘘をつく子供」は、一般には、羊飼いの少年に焦点を当てて、寓話を理解しようとするのではないでしょうか。
問題は羊飼いの少年だけなのか!?
要するに好い加減なことばかり言っていると、いざと言う時に相手にされない。だから常に真実な言葉を発しなければならない。つまり、言葉を発する側の姿勢や心構えを説く寓話として理解されているということです。
狼がいないにもかかわらず「狼が出た!」或いは「狼が来たぞ!」と嘘をつけば、現実に狼が現れた時に信用されない。そして不利益を被る。だから、嘘は慎まなければならないというわけです。
教育目的で寓話を聞かせるのならば、十分かもしれません。しかしながら、実践的に考えると、更に一歩踏み出す必要があるというのが今回の趣旨です。
村の利益
あなたが寓話の中の大人たちだったらどうしますか。
「狼が出た!」或いは「狼が来たぞ!」と叫ぶ羊飼いの少年の視点から見るのではなく、毎度、毎度、「狼が出た!」或いは「狼が来たぞ!」と聞かされている大人の視点からみたら、大人の立場にいたらどうしますかということです。
論点をぼかさない為に、大人たちには狼が現実に現れたら深刻な事態を招くという共通認識はあるとしましょう。そして、少年の声に呼応し、武器を持って出て行ったように、大人たちは狼が現実に現れた際に対応する術は心得ています。
深刻な事態を招くとは、狼が村中の羊を全て食べることまでは予見されなかったのではという反問に備えたものです。狼が村中の羊を全て食べるかどうかは別として、大人たちは皆、狼が来れば、村にとって深刻な事態を招くことに疑いは無いという認識は有るということです。
さて、改めて尋ねます。
あなたが作中の大人の一人だったらどうしますか。
羊飼いの少年へのべき論は意味を持たない
あなたが作中の大人だったとして、羊飼いの少年はどうすべきであるかというべき論は、意味を持ちません。どんなべき論にもかかわらず、現に今も、「狼が出た!」と叫んでいるからです。そして、狼が本当に姿を見せたのか、或いはいつも通りの嘘なのか、確かめるには羊飼いの少年の元へ向かうしかないからです。
大人たちのべき論
羊飼いの少年が、何回嘘をつこうとも「狼が出た!」という叫びには、対応すべきというのが結論です。
意味を持つのはあなたにとってのべき論です。それは、今すぐにでもべき論に従って現実を変えることができるからです。
ゼロでない可能性
羊飼いの少年は、現実に狼が現れた時も、「狼が出た!」という叫び声を上げるでしょう。「狼が出た!」はいつものように嘘かもしれませんが、本当に深刻な事態が発生しようとしていたら、それが回避できる現状考えられる唯一の可能性であれば、無視することはできません。
大切なことは、情報の発信者は管理できないということです。羊飼いの少年は変えられないのです。べき論は意味を持たないと言ったのはこの意味に於いてです。
受信側ができることは、発信された情報の受け止めです。真に結果を求めるなら、真に目的に忠実なら、自ずと行動は決まってくるのです。
ところが圧倒的に、情報発信者が問題にされることが多いように感じられます。
報告が上がらない理由
しばしば上司が部下に、報・連・相を説いたり、聞いてもらえるような話し方をしろと云った具合に、自身の聞く側の姿勢を棚上げして、報告者だけを問題視するのがその一例です。
今度は、あなたが村の大人では無く、管理職、部下を持つ上司だと想像してください。
道義的に見れば、部下は、勿論、無用な
時と場合によっては、「嘘をつく子供」と同様に、村の羊を全て狼に食べられてしまうことに匹敵する事態を招くことを意味するからです。
意味あるべき論
部下から思うように情報が上がって来ないのを、部下の無能のせいにし、部下を
べき論には常に時間軸が必要です。今、どうするかという話を置いたまま、将来のあるべき論を語っても役に立たないのです。現時点であるがままの部下を差し置いてしまえば、理想論であったとしても、空論です。従って、将来あるべき論は、部下の嘲笑の種になるだけなのです。今現在から離れた話をするあなたには、現実との接点にしか興味の無い部下らは聞く耳を持たないということです。
部下は上司の鏡
上司にとって、部下は自分の合わせ鏡くらいに思っておいた方が良い。配下に無能な部下しかいないとしたら、上司が無能だからということです。
そして、部下は、無能と見切った上司には有益な情報を上げようとは思わないものです。勿論、無能な部下は、あなたに有益な情報はもたらさないでしょうけれども。
伝えたことにしたいと思われていたら重症
体裁だけを意識した形式的な報告が為されているとしたら、部下との関係は最悪と言って良いでしょう。部下の目的が、「伝えること」よりも「伝えたという形式を整えること」にあるからです。
言い方が悪いとか、そんな言い方では聞いてもらえないとか、
あなたに聞いてもらいたいと思うから、あなたに伝えようとするのだという事の本質を忘れてはなりません。嫌われたら間違いなく情報は減衰します。