経済至上主義は「お金に換えられないもの」を置き去りにする|本物の喪失

本物の喪失
スポンサーリンク

価値の一元化

現代社会は、経済至上主義に傾倒し過ぎ、その結果として、価値が一次元化し、他の次元、他の価値観が捨象されています。

言い換えると様々な価値が経済的価値、金銭的価値に換算されて考えられ、他の価値体系を基準とした価値観や考え方が後退しているということです。

人間性の喪失

人としての生活

企業経営に於いて例を挙げれば、従業員に対する待遇が、費用対効果に完全に置き換えて計算され、従業員個々の生活があまり勘案されないということです。是非は別として、かつては年齢に応じた加算給があり、就業していれば、年相応の生活は保障されていた時代がありました。これは、経済効率とは別の価値観が有り、人は年齢相応の生活ができて然るべきという考え方が根に有ったと言えるのではないでしょうか。

更には、福利厚生なども同様で、従業員の生活を顧みて、自社にふさわしい水準の豊かな生活を送ってもらいたいという経営者の願いの現れでもあったのではないかと思います。

単なる経営資源としての従業員

全てがとは言いませんが、現代では、給与賃金や福利厚生費は割合を計算し、その費用をどれだけ削れば、利益はどれだけ向上するかというような視点で見られているのではないでしょうか。賃上げは、他社との比較で人材流出を防ぐといった、あくまでも需給バランスで見られているのではないでしょうか。

取り込まれていく・・・別に存在すべき思考の枠組み

このようになってしまう理由は、経済至上主義から離れた価値観からの視点が希薄だからです。

学問や価値観は物事の評価、判断への枠組みフレームワークを提供します。そして学識や教養は、その枠組みを多様にするものです。

しかしながら、現代社会では、他の枠組みですら、経済至上主義の枠組みに置き換えようという力が働いているように思われます。

換金価値こそ全て

経済至上主義的な価値は、即ち「換金価値」であり、「お金に換えられないもの」の大切さが置き去りにされているように思います。前回「需要の創造は必ずしも正しくない|現代社会の病理の根源を探る」で触れた「おふくろの味」や「お寿司屋さんの原風景」も「お金に換えられないもの」です。

本当に良いものの喪失

経済至上主義は、「本当に良いもの」からは離れていくと考えています。純粋に良いものを提供し続けるよりも、混ぜ物などして嵩増しした方が経済効率は良いからです。

本物へのこだわり

例えば、こだわりの蕎麦職人が蕎麦を挽いて、蕎麦を打ち、蕎麦を茹で、蕎麦を提供しているとします。ここでは「蕎麦とはこういうもの」という価値観が支配しています。もちろん、暖簾が維持できなければなりませんから、経済的視点が皆無とは言いません。しかしながら、蕎麦とはこういうものという本物に対する価値が最高位にあります。

経済至上主義が価値を駆逐、嵩増かさましでまがいものに変質

これが経済至上主義に支配されると、多少多めに小麦粉を混ぜても※お客さんのほとんどは分からないだろう。仮に売り上げが5%下がったとしても原価が10%下がるから利益が増えるだろうといった考え方になります。

※ 小麦粉が混ざっていることが悪いのではありません。適切な量或いは比率を知りながら嵩増しの手段として増量することが問題なのです。一般に蕎麦粉は小麦粉よりも割高です。

これは私には卑しい姿に見えるのですが、皆様にはどう映るのでしょうか。

そんな蕎麦ばかりが増えれば、本物を知る人が減り、「蕎麦とはこういうもの」という価値は実現されなくなるでしょう。

更級、藪、砂場といった伝統的な蕎麦屋すらも消えて行ってしまうかもしれません。暖簾は残っても変質していってしまうことも起こり得るのです。

更科、藪、砂場と云った名に相応しい各々の信じる最高価値の提供があるからこそ暖簾に価値があるのです。

暖簾すら嵩増しの手段に

暖簾すら、嵩増しの道具に使われかねません。それが経済至上主義の怖さだと思います。また、暖簾は経済至上主義にとって恰好の道具です。経済価値が名前だけで嵩増しされるからです。

本物を知る者がいるから可能な価値の伝承

価値というものは、それを知る人の存在で維持され、それを知る人が居なくなれば、存続されない側面があります。

本物の蕎麦屋も寿司屋の原風景もそれを知るものが存在し、それを知らしめる存在が維持されて初めて存続できるのです。


沢口靖子さん主演のテレビドラマ「科捜研の女」で描かれていた本物を知る者を育てる和菓子職人を紹介しています。(¶ 客に迎合することで価値は損なわれていく|商業主義の末路