できるというのは、実は単に、分からないことを自分で調べられるということなのだというお話です。
できるということが、自分で調べられることだと理解できれば、
習い事への取り組み方、「何か習得しなければならないこと」一般について言えることなのですが、学習時の
敢えて
曲がりなりにもできるということ
昔話を例に採ってお話します。
パーソナルコンピューター(パソコン:以下PC)が出回り始めた頃、PCが使えるようになりたいと思っていました。当時、アルバイトを切っ掛けに知り合った人生の先輩とでも呼ぶべき友人がおりました。
PCに非常に精通した人で、そのカバー領域は、ハードウェアから、ソフトウェア、それも
ハードウェアでは、当時、彼は、NECの
PC分野に掛ける情熱は凄まじいもので、パーツ類の情報も日々アップデートしており、ビデオボード(当時はグラフィックカードをこう呼んでいた)では、ベンチマークテストを参考に比較して最速のものを選び出し、常に取り換えていたようでした。
ソフトウェアでは、ワープロは、ジャストシステムの一太郎を、表計算では、
ハードの組立から、アプリケーションの操作、バッチファイルの作成、プログラミング、コピープロテクト外し※などなど、思いつくままに挙げてみましたが、
事実、質問をして、答えてもらえなかった記憶はありません。
「パソコンができる」
一般に「パソコンができる」という表現は、PCについて無知な人が、その分野の奥行きを全く意識しないで使う極めてナイーブな表現です。個人的には、口にするとPC関連知識の多岐にわたる様々な奥行きに対して無知な印象を与えるように感じられるので、避けたい表現の一つです。しかしながら、「パソコンができる」と表現するのが適切と感じられるくらいPCに関するあらゆる分野に精通した人でした。
私自身はと言えば、そんな「パソコンができる人」を尻目に、おっかなびっくりPCを使っていたのですが、分からないことがあると、ヘルプデスクよろしく、彼のところへ電話するのが常でした。或る程度なら、自分でも解決できるようになっているはずなのにもかかわらず、ちょっと不明点が有ると直ぐに照会の電話です。いつになったら、自分も十分にPCが取り扱えるようになるのだろうと疑問には思っていました。
ところが、意外に早く、「自分はできる」と気付く時が来ました。
「自分はできる」
それは先輩の、つまり「パソコンができる人」の家に遊びに行った時のことです。新しいグラフィックカードを手に入れたばかりで、それをPCに差し込んだところでした。いざ、スイッチを入れて起動すると、画面が砂嵐※になりました。
※ ひょっとすると液晶モニターしか知らない世代はご存知ないかもしれません。当時のブラウン管のモニターでは、正常な入力で無い場合に砂嵐状の画面になりました。砂嵐状の画面でもっと一般的なのは、ブラウン管テレビでの放映時間外でしょうか。
この時、不謹慎にも、「
トラブルシューティングの現場
「パソコンのできる人」はこのような時、どう対応するのだろう。購入したばかりの高価なグラフィックカードが正常に動作していないのです。当時は今と異なり、グラフィックカードも高額で、上位製品ともなれば10万円以上はする
「パソコンができる人」は、果たしてどう振る舞うのだろうか。
私はじっとして様子を伺っていました。
決定的瞬間で「当たり前が当たり前にできること」と知る
すると彼は「あれれ、おかしいな」と言って
素早く取扱説明書で該当箇所を探り当て、直ぐにもPCモニターには正常な画面が映し出されました。
余りにも当たり前の行動に、私は強い衝撃を受けました。「できる」ということは、
PCでWordやExcelといったアプリケーションは当然のこと。ハードウェアについても、自己解決するようになりました。アプリケーションなら先ずはファンクションキーの一つであるF1を押してヘルプを表示する、ハードウェアであれば、取扱説明書を参照する、などなどと云った具合に、当たり前にリファランスを確認し自己解決するようになったのです。
それからというもの、PC関連に留まらず、正常で無いこと、分からないことに出遭うと、この時のことを思い出し、慌てず、然るべき手立てを考えるようになりました。
「調べる」ということは、結果として「課題解決」に繋がるのです。
できる・できないの紙一重
常日頃から、よく観察していると分かることですが、「できない」とされている人は、何か困難にぶつかると直ぐに
しかしながら、悟りを得て直ぐに自己解決できるようになりました。心構え次第で、自己解決できることの証左です。従って、必ずしも知識量の差ではない※のです。
※ 勿論、悟って自分でできるようになった背景には、相応の知識の集積があったことは事実です。ただ、知識量を増やしても心構えが変わらなければ、いつまで経っても「自分でできる」ようにはならないという指摘です。
できる・できないの紙一重を分かつのは、問題に直面した時の心的態度ということです。