自分の頭で考えられない理由
或る外国企業の名称※の読み方を巡って興味深い出来事を、元同僚でもある友人から聞きました。(※ 現在は別名)
友人(その当時は取締役)が一人の若手社員に、鉱業分野の英文書の和訳を求めたところ、企業名が明らかに誤ったカナ書きになっていました。その点を指摘し、訂正を求めたところ、或る独立行政法人の表記に倣ったから間違いないと言い張り、訂正を拒んだのだそうです。
仕方が無いので、同社社長スピーチの動画を見せ、社長自身の発音を聞かせたそうです。それでも、独立行政法人が採用しているのだからと、尚もカナ書きに問題は無いと言い張ったと言います。
実際のところ、鉱業は一般に重要視されていないのか、誤訳と思われる表記がしばしば見られました。大手新聞社などでも、
このような背景があるにはあるのですが、ここに登場した若手社員の反応にはとても興味深いものがあります。
権威の無謬性
この若手社員は何を以って正しいと判断するのかということです。権威主義的で有ることは間違いがないのですが、権威に
自分では考えない方が良い
物事を判断する時に、
権威の無謬性を疑うか、自分の考えを疑う必要が出てくるのです。従って、権威の無謬性を支持するのであれば、自分は考えない方が良いという結論に至ります。
権威主義の強い文化では、異論そのものが少なくなるのは、考えること自体が苦しくなることだからです。権威に従うならば、考えて異見を持つことで、自分の考えに反した行動を執らざるを得ない状態になるのです。
自分の頭で考えるということ
自分の頭で考えるとは、その時々において、何を以って正しいとするか判断することでもあります。何を前提とし、何を確かでないとするのかによって、結論は変わります。
つまり、日常的な判断が必要な場合と、哲学的な判断や、政治的な判断などが必要な場面では、前提とする(される)もの、勘案する(されなければならない)ものが変わってくるのです。
自分で考えるという前提に立てば、権威は敵です。自由な思考の妨げ以外の何ものでもありません。
中途半端な「考えない人」
先の若手社員についてはどうでしょうか。初動としては、権威があると思われる独立行政法人のカナ書きを以って正しいとしたことは致し方ない部分があるかもしれません。望むらくは、複数の
一方で、同社の社長が公開しているスピーチの動画で発音を確認した時、独立行政法人の権威に
反証として示された同社社長の発音を疑うくらいに独立行政法人の発音に信を置くならば、適切な海外メディアを選出して照会し、裏付けを求める行動くらいは執って然るべきなのです。公的なスピーチでは考えにくいですが、訛りやアクセントの違いがあるかもしれないからです。
信を置いた独立行政法人のカナ書きを良しとするところは容認できるにしても、その反証が出た時点で、改めて「何を以って正しいとするのか」を考え直さなければならないということです。
この場合において、私であれば、同社社長のスピーチを以って、正しいカナ書きを決定するでしょう。ただ、それについて異議があるようであれば、先に示したように然るべき海外メディアに問い合わせるでしょう。
何を以って正しいとするか
何を以って正しいとするかは、流動的です。臨機応変に、自分自身で何を以って正しいとするかの判断ができなければ、自分で結論を出すことはできません。
さもないと、幼稚園児のように、
先生が言いました。○○先生が言いました。
と専ら権威づけされた誰かの
一方で、何を以って正しいとするのかが明晰に判明していれば、前提としたものからそこへ導くという当たり前のことが考えることでもあります。
掲題「自分で考えない人は何事も中途半端に終える」の意味はお分かりいただけたでしょうか。
自分の頭で考えないことは、何を以って正しいとするのかが分からないことであり、着地点が分からないということでもあります。従って、目標に到達しているのか否かの判断もできません。
要するに、目的地が分からない状態で歩き続けていても、目的地には永遠に到着しないのと同じだということです。従って、自分の頭で考えない人は、決して完了、完結を見ることは無いのであり、中途半端に終えざるを得ないのです。